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「でも俺が死んだときの雪の顔も見てみたい」
「せいせいするよ。とびきりの笑顔を見せてやる」
後ろで汐がふふっと笑った。
「そんなこと言って。どうせまた泣いて縋り付くんでしょ」
「……邪推」
天使みたいな顔をして、血も涙も知らない悪魔のようなことを言う。
ふわりと石鹸の匂いが香る。後ろから柔らかく抱きしめられていた。俺より20センチ近く背の高い汐の体に、俺はすっぽり収まってしまう。
「一緒に生きようよ」
「骨になって粉になって、血肉になって心臓になって?」
「うん。そしたら寂しくなんてないよ。雪巳が嫌なことも辛いことも、全部俺が受け止めてあげられる。嬉しいことも楽しいことも一緒に感じて生きる」
「そこに俺はいないのに?」
耳元に汐の息がかかる。暖かい体に包まれていた。柔らかく笑う気配を感じる。
「雪巳が消えたら俺も消えるよ」
だって俺には雪だけだから。
そう汐が呟いた。
「……」
微かな振動が伝わる。汐の携帯がバイブ音を立てていた。
「あ、箱川くんだ。俺行かなきゃ。またね雪巳」
「……」
いじめっ子なんてクソくらえ。
そのままパタパタと去って行く汐を見ていたが、その後チャイムが鳴るまで今度は体育館裏で蹴られ殴られへらへら笑う汐を見ていた。突然じゃんけんを始めたからなんだと思ったら、負けた奴は汐とキスしなきゃいけない罰ゲームらしい。恐れ多いように腰の引けた汐が負けた相手の顔を隠すようにキスをする。手を叩きながらげらげらと下品な笑い声を上げる様をなんとなしに眺めていた。
箱川と汐は去年同じクラスだったらしい。今年になってクラスが変わってもなお汐を虐め続ける変な奴だ。今は俺と同じクラスにいる。
「なーにが楽しいんだろうなぁ」
ちょっとでも嫌な顔を見せてくれればいいものを。ああもへらへらするばかりじゃ楽しくない。清々しいとは思うけど、スカッとはしない。むしろ苛々する。あれ? それじゃあ清々しいとはいえないのか?
「まったくだよね。でも僕もいけ好かないなぁ相楽くんは」
ふと横から声が聞こえてきた。びっくりして隣を見れば、いつの間にか見たこともない男子生徒が俺と同じように柵に手をかけて、汐たちを眺めていた。
「……誰?」
人から話しかけられることなんてまったくもってない俺だ。嬉しくないわけではないけれど、不信感のほうが強い。
俺のほうを見て笑ったのは、いかにも気の弱そうな中性的な男だった。男にしては柔らかい顔づくりだからか、力の抜けた感じがする。よく見ればバランスの整ったパーツだが、いかんせん存在感が薄かった。素朴でしとやか、という言葉が似合う古き良き日本美人というような感じだ。
「俺、園芸部なんだ。ここの屋上庭園を造ってるの俺たち。つってもみんな幽霊部員だから、真面目に活動してるの俺だけなんだけどね」
「あ……そう」
「君よくここ来てるよね。相楽くんともよく話してる」
汐以外の人と話すのなんて久しぶりすぎてなんて言ったらいいのか分からない。落ち着かない。
まだ汐たちが気持ち悪い罰ゲームとやらをしているのが声でわかった。返答すべきなのに、気もそぞろになってしまう。同時に他人から話しかけられたとこに拒絶反応でも起こしたみたいに心臓が速くなる。
もし今口を開けたとしても、ろくでもない言葉が口をついて出てきそうだった。俺の口が馬鹿みたいに悪いのはきっといつも汐を相手にしてるからだ。汐の馬鹿。
緊張で瞬きを繰り返しながら視線を動かしていると、隣でくすりと笑う気配を感じる。校舎のほうで、五限の予鈴がなるのが聞こえた。
「クラスも隣だしまた会うかもね。ばいばい、志島くん」
「え?」
自己紹介なんてしていない。俺はこいつの名前も知らない。思わず顔を仰ぎ見ると、散る間際の桜のような儚い笑顔で笑っている。艶のある黒髪は日光で輝き、濡れるように黒い瞳がじっと俺を見つめていた。手を振りながら駆け足で去って行ったかと思えば、芝生にかかる水の元栓を締めているのが見えた。
収まらない緊張は悪化するばかりで、マラソンを走り終えた後のような動悸がずっと続いている。これは一種の高揚か。ほんの一言、二言しゃべっただけなのに、貧血でも起こしたようにクラクラする。
あの人、俺の名前を知ってた。目立つ人間じゃないのだ。なのに、なぜ。ただでさえ他人とのコミュニケーションに飢えている俺だ。話しかけられただけでも頭の中が真っ白になるっていうのに、名前まで呼ばれたんじゃ耐えられない。思った以上に動揺は大きかった。
一緒に生きようよ、なんて馬鹿みたいなことを言った汐の柔らかい声が蘇る。まったりと、穏やかな空気が懐かしい。
きっと俺たちの世界は箱庭のように閉ざされて息苦しいものだった。汐が俺を引っ張り、俺が汐にしがみつく。
この世界がずっと続くものだと思っていた。ずっと、ずっと。
ずっと汐がいる。
これからも、ずっと。
ざわざわと胸騒ぎがした。生暖かい風に吹かれて見る、春の夜の夢のように心地よい世界が唐突に音を立てて壊されていくようだった。夢のように美しかった舞台美術が裏面の剥き出しの板を見せる。ささくれだった木の破片の間から見えるのは現実。
汐はずっとはいてくれない。
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