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 何が? なんなの? 怖い。

 汐の手が伸びてきた。細くて、長くて、白くて、男のくせに俺みたいに節くれだってはいない手。なのに、俺よりずっと大きい。伸ばされた手が頬に触れた。その腕には擦り傷やあざがたくさんあって、絆創膏や白のガーゼが当てられている。

「いい子。可愛い。食べちゃいたい」

 でろでろに甘い声でそんなことを言う。恐ろしかった。その言動がじゃない。相楽汐という人間が、怖かった。

「雪巳は俺が箱川くんたちと絡んでるのが納得いかないんだ」
「ふざけんなよ。何都合よく解釈してんの? 誰と絡もうが関係ねぇよお前が嫌なんだよ」
「そういう素直じゃないとこ、好きだよ」

 甘い口調と裏腹に、浮かぶ表情は恐ろしく鋭利な笑顔だった。何か言葉を発するたびに、汐が俺に侵食してくるような錯覚を覚える。俺は汐の何も理解できないのに、汐には俺の頭の中まで覗かれているようで。

「心配しなくても、俺の一番は雪巳だよ。何があっても、雪巳を優先するよ」
「……そんな、こと」
「しなくていい?」

 汐の手が俺の頬を撫でた。甘い声で、うっとりと笑って。
 口元が震える。
 嫌だ。嫌だ、汐がいなくなったら、俺は……俺は、

「や、」

 ぎこちなく首を横に振ったが、それは微かに震えただけだった。

「一人に、しないで」

 震える声は弱々しく掠れていて、自分自身に嫌悪してしまう。

 こうして縋り付くことしかできない。何が何でもつなぎとめていないと不安で不安で気が狂う。

 求めているのは他人だ。俺のことを一番に考えてくれる、無条件に愛してくれる、そんな他人だ。

 汐は俺が死んだら俺の骨を喰うと言った。肉は腐るけど骨は残るからって。今の汐の目はまるで食人鬼のように妖しく光っている。冗談だとは思えない調子だったから、俺だって、あの時汐が言っていたことが嘘だとは思っていない。きっと汐は本当に俺が死んだとき、俺の骨を粉にして飲むのだろう。そしたら俺は一人じゃないって、そう言っていた。

 どんな愛情でも構わない。ただ愛されていたい。漠然とした淋しさを埋めてほしい。

 俺にとって汐は唯一の命綱なのだ。

「雪巳がもういいよって言うまで、ずっと俺がいるよ」

 ほんわりとした声が降ってくる。その声が、その匂いが、その視線が、足りない何かを満たしていく。

 汐に俺がもういい、なんて言う日が来るのだろうか。そんな日が俺は来てほしくない。

 でも、きっと無理だ。それは俺の問題じゃない。だって気づいてしまった。

 汐はいつまでもはいないのだ。

 箱川たちに絡まれているように、汐を囲む人間は無限にいる。わざわざ俺に絡んでくる園田のような変わった奴だっていたのだ。そのなかに汐の中身を選ぶ人だっているかもしれないし、汐が誰かを選ぶかもしれない。そこに俺の入る余地などあるのだろうか。俺に向けられる余りものの愛情があるのだろうか。

「汐にとっての一番はきっと変わるよ」

 低く掠れた声が、ぼそりとアスファルトへ落ちていく。

 俺には汐だけ。それが変わる日が来るのだろうか。その時俺は一人になっているんだろうか。
 怖い。

 さっきまでの汐の空恐ろしい笑みと、背筋が浮くような感覚を思い出す。あの恐怖は、あの汐の目の熱さがあるうちは、俺は安心していられる。

「変わらないよ」

 頬に当てられた汐の手が震えた。力が入ったその手が珍しくて、もう一度汐を見上げると、汐はきつく唇を噛みめていて、切れた口の端には血がにじんでいた。

 目に浮かぶ色に微かに混じるのは、昔一度だけ見たことのある怒気のようなもの。

 ついびくりと肩が震えた。すぐに汐が口角をゆるく持ち上げ、いつもの柔らかい光を目にたたえる。

「雪巳が死んでも変わらないよ」
「……骨も喰うくらいだもんな」
「なんなら体も食べようか」
「……好きにすれば?」

 ふわりと笑った汐が俺の頬から手を離した。日は沈み、辺りは薄青く染まっている。露草のような青だった。

 俺は立ち上がり、汐の隣に並んでバスを待った。



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