V
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◇
久しぶりに汐が部屋に来ていた。図々しく俺のベッドの上に蹲っている。これまでそういう素振りを見せた端から蹴っ飛ばしてきたからか、家主のベッドを占領するなんてことは一度もなかった。汐は以外と、俺が自分でも意識していない線引きを自ら超えてくることはない。珍しいな、なんて思いながら肩からずり落ちた鞄を下ろした。
汐はUFOキャッチャーでまぐれでとれたタヌキの抱き枕を抱いて、膝を抱えている。伏せられた顔を見ることはできない。俺が帰ったことにはまだ気づいていないようだった。
「……汐」
声をかけても返事はない。
西日が差し込んだ部屋のベッドの片隅で、うずくまる汐の髪が陽に透ける。それはまるで汐のべっ甲色の瞳のように透き通っていて綺麗だった。
「汐?」
一歩、一歩、静かに近づいても、汐が顔を上げる様子はなかった。近づいて初めて、その耳にイヤホンがはまっていることに気づく。しかし、その白いイヤホンは紛れもなく俺のものだ。汐の長く綺麗な指がタン、タンタンと腕を叩く。
気づく気配のない汐にわざわざ気づかせようとは思わなかった。代わりにベッドの反対端に腰掛けて壁に寄りかかる。軋んだベッドに気づいた汐がパッと顔を上げた。
「っ……!」
心底驚いたように目を丸くしてイヤホンを外した汐の頬は、珍しく赤く染まっていた。ちょうど差し込んでくる西日のせいも相まって、紅潮した頬がやけにきらめいて見える。
「あ、ごめ、ちがくて! ごめん雪ちゃん! 勝手に使ってごめんね! あの、本当にごめ」
「それ、ちょうだい」
ソシャゲを開いて汐の握ったイヤホンを指さすと、汐は慌てて引っこ抜いたイヤホンを渡した。ご丁寧にゴムの部分を指で擦っている。ふと汐が握りしめるように持っているMPプレーヤーに目がいった。俺が昔使っていたものだ。壊れて音量が下がらなくなったものだけど、間違って音量上げてないかな。
俺が汐の手をじっと見ていたからか、汐の頬がますます赤くなっていった。そんな恥ずかしがることでもないだろうに。確かに汐が音楽を聴いてるところなど見たことがないし、なんなら携帯さえろくにいじっているところを見たことがない。気になったのなら言ってくれればよかったのに。
「……曲、聞きたかったの?」
「いや、別にそういうんじゃないけど」
珍しく動転した様子の汐がぱちぱちと瞬きを繰り返す。コミュ障の俺かよ。瞬きをする度に、長いまつげの影が揺れる。顔の反面がオレンジ色に染まっていて、さらに頬はうすピンクに染まっていて。ちらりと窺うように見られたら、なんとも言えない気持ちになった。
ああ、こいつ本当に綺麗な顔してるんだよな。と、見飽きた顔にうっかり見惚れる。つい汐の顔に唾でも吐きたくなってしまった。俺の嫌な性分だ。
「ふぅん」
スマホの画面ではログイン画面が操作されないままになっていた。背後の光で画面が急激に明るくなる。じっと俺を見つめる汐をなんとなしに見つめ返した。ぼとりと手からスマホが落ちていきシーツにしわを刻む。
そっと、汐の顔に近づいた。息遣いが聞こえるほど、近くに。間近に見る汐の瞳は色素が薄くて、人形のように綺麗で、ハチミツみたいに甘そうで、宝石のようだ。そのべっこうの瞳に無表情の俺が映っている。汐の作りもののように綺麗な顔は、今は赤く染まり生気があるのに、俺は夕日に照らされてもなおのっぺりとしている。
鼻先が触れた。俺のぺちゃんこな鼻に比べて、汐はすっと芯の通った彫刻のように整った鼻筋をしている。白い肌は不自然なくらいにシミもなければホクロもない。本当に手を触れることができるのか疑うほどの透明感を持っていた。
そんな頬に血のにじんだ傷痕が一つ。
なぜだかそれがひどく艶めかしいものに見えてしまった。
「……キレーな顔」
気づけばぽつん、言葉が滑り落ちていた。
ひくり、と肩を揺らした汐が息を飲む。唇が軽く開き、すぐそばで動いた。
「ゆ……き、み? どうしたの?」
汐の頬から熱を感じる。いつものような柔らかい声ではなくて、かさついて狼狽えた声だった。そんな汐が珍しくて、小さく笑う。誤差の範囲というくらい、僅かに口の端を上げただけのもの。
なんだか鼓動が聞こえてきそうだった。西日を浴び静まり返ったこの小さな部屋で、俺たち二人だけしか世界に存在していないような錯覚。
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