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「……」
秒針の音が耳に入った。目の前の幼馴染のひどく整った顔を押しのける。
「ゆき?」
「気分悪い」
「大丈夫? 早退する?」
「いい」
「戻るの?」
「もう予鈴とっくに鳴ってんだろ」
最近、よくわからない。胸がぞわぞわする。安寧を手放したくない。けれどそれには代償が伴うのだ。外界への興味という代償だ。
でも、外へ投げ出されたところで俺の心が満たされるわけではない。無数の人を見て、誰の目にも留まらないことを再認識して、寂しくなって。それで終わりだ。
だから、甘え切って無償の愛だけ受け入れる。自分は何も与えないのに、もっともっとと求めて搾り取って、それでもまだ足りない、もっとよこせと乞うのだ。それがいつまでもあるとは限らないのに。
ふいに怖くなる。長い時間をかけて温めてきた卵から化け物が生まれてしまったような感覚に陥る。
それが怖くて、でも手放したくはなくて。どうせ逃げても帰ってくる場所は変わらない。寂しいことはわかりきっているのにそれでも、ふらふらと何処かに行きたくなる。不安はあっても、現状に不満があるわけではないのに。
開けられたままだった第二ボタンを閉めると、鎖骨に掠った指の先が微かに湿り気を帯びた。それがトリガーになったようにずるずると汐の舌の感触だとか、熱い息だとか、上から見たときの睫毛の長さだとか恐ろしく整った顔だとか、蜂蜜のような瞳とか、それがまったく笑っていなかったことが思い出される。無意識に唇を噛みしめていた。心臓がうるさい。顔が熱い。
ぎゅっと鎖骨のあたりを押さえつけていれば、白いワイシャツに小さな赤いシミができた。こんなものに意味を持たせないでほしい。園田も汐も、言いたいことがあるなら口で言えばいい。俺には何もわからないじゃないか。だからこんなに正体の分からない焦りが生まれる。
園田のことは嫌いじゃない。ちょっと怖いけど、それでも俺を認識してくれてる。話しかけてくれる。いっぱい質問してくれる。それが嬉しいって思う自分がいる。
俺は嫌だっただろうか。友達の証拠、だとか変なことを言った園田が、嫌だと思っただろうか。よくわからない。ただ、まだ大丈夫、と基準の存在しない次元で思っている。その不確かな「まだ」は、きっといつまでも「まだ」でいるのだ。
園田は汐じゃない。汐なら俺がもう無理、と思う限界を俺よりも感づいてる。だから俺が限界になる前にそっと引く。俺はいつもそこにつけ込んで甘えるけど、それは決して当たり前ではないのだ。
もし、その俺に優しい世界を手放そうとしたならば、どんなに寂しくても不安定な世界に足を踏み入れることになる。
もうよく分からない。自分がどうしたいのかが分からない。どちらかを手に取れば、もう一方がなくなってしまうような気がした。二つを欲張ってもどちらも手に入らない、そんな童話のようだ。
でもたぶんこれ、ものすごい自意識過剰なくだらない話なんだ。ただただ焦燥感があってこんな下らないことを考えずにはいられない。
「……志島」
本鈴が鳴るまであとちょっと。教室内はざわついている。窓際の一番後ろの席についた時、大きな影が机に落ちた。見上げればシャツの裾をズボンから出し、着崩した制服の中に着た派手なTシャツが目に入った。嫌な予感はしていた。しかし無視するわけにもいかない。そのまま顔を上げると、鋭い目つきで箱川が俺を見下ろしていた。思わず体がすくむ。
箱川は俺をじっと見下ろしたまま、口を開かなかった。ぎこちなく首を傾げれば、箱川の口が微かに開いた。
「お前って、シジマなのか?」
「え、うん……俺、志島だけど」
低く体に響くような声で、ぼそりと箱川が聞く。なんだろう。クラスメイトの名前の確認? 俺のことちゃんと同じクラスの人間って知ってたんだ。
答えれば箱川はまたきゅっと口を結んでしまった。教室で自由に駄弁っていた人たちも徐々に席につき始めている。こんな教室の隅で箱川に絡まれて、周りの目が気になった。箱川が前を退かないから、なんとなく目を背けづらくてそわそわする。会話はまだ終わっていないらしい。
「お前、それマジ?」
え、俺疑われてる? クラスになじめてないとは思ってたけど、さすがに替え玉はしないし、そもそも替え玉になってもらうような友達もいないよ?
「えっと、めちゃくちゃ志島だよ?」
なんだよ、めちゃくちゃって。志島にめちゃくちゃも何もあるか。
「マジか……」
なんで箱川驚いてんの? そんなに俺怪しかった?
箱川は細い目を見開くと、片手で口元を覆った。なんだか、殺人現場の第一発見者みたいな反応だ。俺ってそんなに認知されてなかったのか。いるはずのないクラスメイトがいる的な怪奇現象にでも思われたのか?
「じゃ、じゃあ……お前、」
箱川ともあろう奴が、なぜだかたどたどしく言葉を発する。実際そのくらい狼狽えているのは俺のほうだ。マジでさっさと用件済ませて戻って欲しい。普段目立たない俺が悪目立ちしてる。
「おら席につけー」
次の授業の日本史の先生がぺちぺちとプリントで壁を叩きながら教室へ入ってきた。ぱっと口元から手を離した箱川が、ぎろりと俺を見やる。もしかしたらさっき転んだことを物凄く根に持ってるのかもしれない。どうしよう。
「今日、俺が声かけるまで帰んなよ」
ドスの効いた低い声が降ってくる。汐にあんなことを言われた端からどうなってんだ。本当に今日はついてない。
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