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「汐、やめろ」
「これ」
「っ汐」
「誰がつけたの?」

 長い指が鎖骨の下の赤い痕をなぞった。綺麗な顔を柔らかく緩ませて、汐が俺を見上げる。そのどろりとした瞳が怖かった。絵画や彫刻のように美しい男からは今、人間の温かさを感じない。

「はぁ? 知らねぇよ、そんなん」

 若干声が震えていた。だって普通に怖いだろ。答えれば腰にまわった腕が力むのを感じたが、それは別に俺を締め付けようとはしてこなかった。

「ダメだよ、雪」

 内出血を起こした痕に汐が爪を立てる。ぴりっとした痛みが一瞬走った。思わず顔を歪めた俺を見上げた汐が、そっと唇を肌に這わせた。肌に微かに当たる吐息と、唇の柔らかい感触にゾワリと鳥肌が立つ。そっと上目遣いで俺を見上げた汐が、口の端を小さく持ち上げた。垂れ目で常に笑っているように見える目元がぴくりとも動かない。

「な、にしてんの……お前。やだ、やめろ」

 赤い舌がちらりと見えた。濡れた舌が鎖骨を沿うぬめりとした感触が肌に伝う。頬に柔らかい髪の毛が当たり、伏せた目元の長いまつ毛が肌をくすぐった。俺の首元に顔を埋めてそんなことをする汐が、ひどく厭らしいものに見えてしまう。こんな綺麗な顔をした男にこんなことをさせてしまっている。まるで俺が汚してしまったかのような罪悪感。それと同時に感じるのは、何故だか背徳感のようなものだった。

「やっめろ……っつってんだよ!」

 首元を這う熱と、それをどかせないもどかしさから、我慢できず汐の耳を容赦なく引っ張った。腰にまわった腕が緩んだ拍子に抜け出して、さっと後ろに避ける。汐は甘く溶けるような笑みを浮かべていた。

「そうだよ。そうやって嫌なことはちゃんと嫌って言わないと、ダメだよ」

 立ち上がった汐が近づいてくる。後ずされば薬棚にぶつかった。こういうとき低身長が嫌になる。俺に比べてつくづく汐は本当に何でも持っている。そのくせ頭の中すっからかんで。さすがは神は平等といったところか。そんなところで帳尻を合わせられても腹立つだけだけど。

 汐が俺の頬を包み込むようにして手を触れた。背中をかがめて俺の顔を覗き込む。

「ねぇ雪。ちゃんと言わないと止めてくれないんだよ?」

 ――俺じゃないんだから。

「……っ」

 頭に血が上った。何様だよ。俺のことなんかどうとでもできると思ってんのか? 苛々する。
 
「あ? お前だって嫌なことくらい嫌って言えよ。自分のこと棚に上げてよく言うよな」
「……それは、なんのこと?」

 きょとん、と汐が首を傾げた。その頬を張ってやりたくなる。手を握りしめて、わなわなと震える体をなんとか抑えた。
 
「箱川たちに決まってんだろっ!」
「え?」

 何も分からないというように、汐の頭の上にはてなマークが浮かんでいた。そんな様子を見てつい地団太でも踏みそうになってしまう。この年にもなって自分の感情もコントロールできない自分に呆れる。こんな自分に悲しくなる。なんだろう、なんかもう泣きたい。思ってることの少しも言葉にできなくて嫌になる。
 
「ゆ、雪ちゃん、怒らないで」

 唇を噛みしめて汐を睨みつければ、珍しく汐があたふたしだした。治りかけの汐の頬の傷に親指を食い込ませれば、一瞬だけ汐の顔がきゅっと歪んだ。
 
「痛くねーの? 箱川たちと仲良しとでも思ってんの? 胸くそ悪ぃんだよ」

 さらに力を加えれれば、汐はちょっとだけほほ笑んだ。気持ち悪い。俺のほうが不快になる。こいつのこういうところが怖くて嫌いだ。
 
「だってさぁ、雪」

 甘い匂いがする。頭がくらくらして、酔ったようにふわふわ気持ちよくなる。そこに汐の柔らかく、脳をどろどろに溶かすような声がさらに加わるのだ。
 
「目ぇつけられたらどうすんの?」
「はぁ?」
「箱川くんたちから俺がされてるようなこと、雪巳がされたらどうするの?」
「どうするって……」

 そんなことはない。そんなことは起こらない。俺が聞いてるのは汐が痛いかってことなのに。

「お前は、どうなんだよ」

 汐は箱川たちに絡まれてどう思ってんだよ。と、そう聞いたつもりだった。やっぱり言葉は足りないし、屈曲した馬鹿な幼馴染の理解力ではそれを補うこともできない。

 汐は目元を緩ませ、三日月のように口元を持ち上げた。

 ――刺す。

 確かにそう聞こえた。ふふっと笑う無邪気な声も。
 

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