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 夕方の空は白んでいた。緩む口元に必死に力を入れながら下駄箱から靴を出す。

「ご機嫌だね、志島くん」
「うわぁっ」

 突然後ろから声がかかった。手に持った靴が滑り落ちていき、床に埃が舞う。振り向けば園田が玄関に腰掛け、膝の上で頬杖をついていた。すぐ側には汚れた軍手が転がっている。

「あ、部活中? えっと、おつかれ……」
「なにかいいことでもあったの?」
「い、いや……特に」
「俺は全然いいことないや」

 はぁっと斜め下を向いて園田が溜息をついた。その仕草と表情がなんともアンニュイで、さらに午後と日暮れの境のような白ともオレンジとも呼べる光が園田を照らす。

 昼のこともあって、一方的に気まずいと思っていたけど、変わらない園田を見ていれば俺一人が気にしているのも馬鹿らしく思えてきた。鎖骨の噛み痕がちくりと痛んだ気はしたけど。

「向こうで作業してたら校舎に放送で呼び出されるしさぁ、制服に泥ぶちまけるしさぁ、落とした種は間違えて流しちゃうし……嫌いな奴には絡まれるし」

 膝に顔を埋め横を向きながら園田が愚痴をこぼした。儚げな顔とは対照的にいつもは明るく喋る園田だが、今はその声にも覇気がなかった。

「あ……えと、まぁ、気にすんな?」

 あれ? こういう時にこの言い方って駄目なやつかな。よくわかんないけど。

「まぁでも志島くんに会えたからラッキー。これでチャラになったかな」

 園田は顔を上げると一変して楽しそうに笑った。立ち上がって軽い足取りで俺の前まで来ると、俺の頬を両手で包み込んでこつんとおでこを当てる。園田が離れると遅れて身震いがやってきた。この距離が普通だとはやっぱり思えない。これは園田にとっての普通で、一般的にはやっぱり近いに分類されるんじゃないか?

 呆然と園田を見上げていれば、薄い唇が綺麗な弧を描きふふっと笑った。片手で肩を抱き寄せられ、土の匂いが鼻に届く。そのまま園田に引っ張られるようにして昇降口を出た。

「……あ、相楽くんだ」
「えっ」

 鼻歌を歌っていた園田が声を上げる。その言葉に思わずびくんと肩が震えた。

「うっそー」
「なっ」

 落ち着け。動じるな。やっぱり園田は少し怖い。箱川のほうが、話すテンポだとかは合ってるのかもしれない。それに、こいつは何を考えてるのかまったく読めないのだ。

「じゃあねー志島くん。気を付けて帰るんだよー。いくらイケメンに声かけられてもついて行っちゃ駄目だからね!」
「いや、何歳だと思ってんだよ」
「君は危なっかしいからなぁ」

 手を放しひらひらと降りながら園田が去って行く。忙しない奴だ。その後ろ姿が見えなくなり、体の向きを変えたところで思わず足が止まった。

「うわっ……なんだよ次はお前かよ」

 つか本当にいたんじゃん。何がうそだよ、園田め。

 汐は昇降口の屋根があるところにぽつんと突っ立っていた。誰かと待ち合わせでもしてるのかと思ったが、その目はまっすぐに俺を見ている。

「……いいよね……だって、駄目だよ」

 その目は俺を見ていたのだろうか。透けるような透明感を持った色素の薄い目が、砂糖を入れた紅茶をかき混ぜたように複雑な色を見せる。俺に言った言葉ではなかったのかもしれない。そのくらい小さくて、普段の汐の声からは考えられないくらいどこにも届かない声だった。

「……」

 そのまま汐はどこか上の空で背を向けると、足早に歩き始めた。
なんだよ。情緒不安定だな。いや、そんなんいつもか。でも、そんな避けるみたいに帰んなくてもいいじゃんか。

「汐」

 呼びかければ汐の肩がびくりと跳ねた。

「……なぁに?」

 一瞬の間が空いて、いつものような胸やけするくらいに甘い声が答える。ふわりと振り返った汐は、どの角度から見ても完璧と言える笑顔を浮かべていた。

 ……なんか嫌だな。汐のくせに。

「なんでもねぇよ。相変わらず腹立つなって思っただけ」

 取り繕ったような態度が、だろうか。

「ふふ、雪ちゃん何かいいことでもあったの?」
「お前は何か嫌なことでもあったの?」

 俺が追いつくまで止まって待っていた汐が、肩を揺らして笑う。並んで歩きだして少しした時か、汐が風に流れて消えていくような声を出した。

「あったよ。嫌なことばかりだ」

 珍しい。スカスカ頭の汐が珍しく乱れてる。それでも俺に向ける空気はいつもと変わらない穏やかで甘いもので、ただそこにへらへらとした感じがなかった。

「へぇ……明日は学校サボっちゃえば?」
「なんで。雪巳が行くなら俺も行く」
「何もいいことないのに」
「雪にはいいことあったの?」
「なんもねーよ」

 無意識に鎖骨の赤い痕を制服越しに掻いていた。その手に目を留めた汐が立ち止まる。今度は俺が振り向いて汐を待った。俺と目が合うと、汐は表情を変えることなく何事もなかったようにゆっくりと足を踏み出した。長い脚じゃ、俺の一歩よりもはるかに大きい。

「例えばさ」

 汐が口を開く。またいつもの戯言か。興味ないというふうに、返事もせずに聞き流した。

「子どもを拾ったとして、その子が親からひどい扱いを受けてたとするじゃん。自分の意思で元の親の元に戻りたいって言ったら、どうする?」
「さぁ、好きにさせれば? そんなん自分の責任じゃん」
「またひどいことされるのに?」
「親のことを信じてるかもしれないし、愛してるかもしれない」
「それはその子にとって幸せなのかな」
「そんなん当事者が決めることだよ」
「それで子どもを送り出した人が不幸になっても、それは幸せ?」
「全部がうまくいくわけがない」
「みんなわがままだからね」

 汐が息を吐き出す。すぐ近くを歩いていたおばさんが汐の溜息に釘付けになっていた。得なもんだよな。息をするだけで人が寄ってくる。隣にいる俺は誰の目にも映らない。

「俺はね、幸せになってほしいの。そのためにならなんだってする。だから、いらない人間は取り除く。それが俺自身だったら死んでもいい」

 物騒なこと言う奴だ。こいつの頭の中には何が詰まっているんだろう。

「自己中」
「そうかな」

 そうだよ。だって、寂しい。そんなことをしていたら、そのうち一人になってしまう。だれかが不幸にならなければ得られない幸せなんて、それは本当に幸せだろうか。愛してくれた人が相手のためにいなくなったって、一人にされたら寂しいだけじゃないか。だったら俺は心中のほうがマシだ。

「馬鹿だよ。カスだよ。ゴミのほうが価値あるね」
「ははっ、絶好調だね」
 いいこと、あったんだ。

 呟いた汐の声は、風に吹かれて後ろへ飛んでいった。



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