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 電気をつけなくても、都会じゃ隣の家の玄関の明かりや街灯で、多少の光が入り込む。暗い部屋で目を凝らした。窓から見える隣の家の二階の部屋にはまだ電気がついていた。カーテンで中は見えないけども、おおかたどこにいて何をしているのかは想像がつく。

 珍しい。今日はまだ起きてるんだ。

 夜が深まるにつれ音がなくなっていく世界で、寂しいと泣くのは誰か。なんで隣にいるのが俺じゃない?

 暗闇の中で汐はきつく歯を食いしばった。ぎりぎりと嫌な音が暗い部屋に響く。不協和音だ。黒板を爪でひっかいたような不快な音がする。

 無意識のうちに、できかけのかさぶたを掻きむしっていた。柔らかい感触が指先に触れる。痛みはない。その頼りない感触に、どろどろとした暗い感情は悪化するばかりだった。がりがりと、ざりざりと、傷跡やら無傷の皮膚に爪を立て続ける。思い出すのは放課後の出来事だ。

 目ぼしはついていた。クラスも、名前も、知ることができた。前に雪巳に絡んでいた奴だ。園田柊。

 
「それ、運ぶの手伝おうか?」

 とびきりの笑顔をくれてやった。懐柔されなかった者はいない。多少嫌な顔をされることはあったかもしれないけれど。自分は馬鹿だから、頭を使うのではなく顔を使うしか武器がないのだ。

 唇を持ち上げて、歯は見せない。これは今使うべきではないからだ。普段歯を見せて笑わないからこそ、それを見せられたときに気を許されたと錯覚した相手に入り込める。目は少し細めて、目尻に意識を持っていく。窺うように顔をちょっと俯けて。ゆったりとした動作で首を傾げて瞬きを一つ。

 汐よりも5センチほど背の低い園田と、首を傾げたら目線があった。切れ長の目で、線が細くて、まるで女のような顔だ。呆けたように薄く開いていた唇は、春の花のような可憐さを持っていて。

 ――クッソうぜぇ。殺したい。ブチ犯すぞ、雑魚が。

 殺した暁には手足を引きちぎって死体を下水に放り込んでやりたい。

 こちらを向いた園田は、一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐにクスリと笑った。
 
「なんで?」
「大変そうだなって思ったから」
「そう? そんな見苦しかったかな、ごめんね。でも君も大概だね、相楽くん」

 いくつものセルトレーが重ね上げられ、土に植わった植物からは小さな芽が出ていた。両手は塞がり、制服にも泥汚れがついている。そんな様の園田は誘うような笑みを浮かべた。
 
「見苦しいな。志島くん取られて悔しい?」

 園田のつま先を全体重かけて踏みつぶそうかと思った。奥歯が痛む。歯を食いしばって震える体をどうにか押さえた。頭に血が上って、視界さえも白く黒くちかちかする。
 
「取られる……?」

 雪巳は俺のじゃない。もしもそうだとしたら一歩も外に出すわけがない。誰の目にも触れさせない。

 にっこりと園田が笑った。中性的な笑顔は散り際の桜を思わせる儚さだ。対抗するように汐も笑みを深くした。艶やかな唇から真珠のような歯が覗く。見た人を跪かせるんじゃないかというほどの壮絶な美しさを持った笑顔だった。そんな汐に怯むことなく、園田は続けた。
 
「最初はビビってたけど、最近はおしゃべりしてくれるんだよ志島くん」

 どくどくと心臓がうるさい。雪巳に会いたい。閉じ込めてしまいたい。ずっとずっと泣いて俺だけを呼べばいいのに。
 
「相楽くんも友達ほしい?」
「……いらない」

 駄目だ。雪巳が泣いて縋り付くのは俺だけでいい。けど、雪巳に泣いていてほしいなんて、そんなこと思っちゃ駄目だ。雪巳はこいつといるのが楽しいのか? こいつと話していたいのか? 

 それが雪巳の幸せか……?

「ふぅん。寂しい人だね」

 どこがだ。雪巳がいればそれでいい。

「君は欲深い人だね」

 園田が驚いたように目をぱちくりさせた。そんな園田にちょっとほほ笑んで後ろを向いて駆け出す。

 やっぱり駄目だ。園田は駄目だ。それは自分のためか? それとも雪巳のため?

 鎖骨に赤い痕をつけてきた雪巳を思い出す。混乱したように揺れていたあどけない瞳も……怖かったんだろうな、きっと。

 園田はきっと雪巳を追い詰めるし、苦しめるし、泣かせるはずだ。

 じゃあ答えは一択じゃないか。

 ガリッと音がした。鉄の味が口の中に広がる。噛みしめていた唇が切れたらしい。歯がかみ合う音で我に返る。
見据えた先には明かりのついた雪巳の部屋。きっとベッドに寝転がってゲームをしてる。いつもならとっくに寝ている時間なのに。
 雪巳が寝付くまでベッドに入らないのが汐の習慣だ。

「なんだよ……ふざけんなよ、あいつ」

 相楽汐にとって、志島雪巳という人間は全てであり、世界だった。偏りすぎた世界のまさしく中心である雪巳が消えることなど、汐にとって世界の崩壊に他ならない。

 雪巳に関心を持つ人間も、雪巳を惑わす人間も、その関心はどんな手を使ってでもへし折ってきた。それが雪巳のためだと思って、それが雪巳の幸せだと思って。

 悔しい? と声がこだます。

 握りしめた拳が手のひらに爪の痕を残した。これは間違った世界だ。元に戻さないといけない。

「……す、殺す、刺す……犯す……消す」

 園田柊は敵だ。雪巳に何かしたら許さない。
 
「雪には汐だけ……でも、俺にはもう、何もいらないよ」

 自分の顔が、体が……なんでもいい、何かしらが雪巳のためになるのなら。

 何だってするし、どこにだって行く。どんなものでも与えてやる。死にたくないって言ったら自分の心臓を抉り出してでも生かしてやる。死にたいって言ったら迷わず手にかけてあげる。寂しいって言ったらそこが地獄の底でも世界の果てでも側にいる。殺してほしい奴がいたら代わりに手を汚してやる。

 守るのだ。どんなささやかな世界でもいい。そこが彼が生きやすい世界であるように。

 血のにじんだ唇を、汐は虚ろな目をしてそっと撫でた。




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