X
← 31/43 →
箱川は園田と違ってぐいぐい来るわけではない。そういうところが俺にはけっこう気が楽だった。だからか自然と肩の力も抜ける。膝の上の手汗で濡れた手を開いた。
いざ口を開こうとすれば収まりつつあった緊張がどっとやってくる。唾を飲み込んで慎重に言葉を選んだ。
「箱川は……いつもこの時間なの?」
「っあーいや、俺は……」
思い切ってそう聞いてみれば、箱川は慌てたようにかぶりを振った。そんな箱川にまた何かまずったか? と不安になる。突かれたくないポイントでも当ててしまったかもしれない。流石の俺だ。コミュニケーションスキルがなさすぎる。空気も読めない。
謝ったほうがいいのだろうか、と考えている間に、箱川が言いづらそうに顔を背けて耳を掻いた。その度ピアスが揺れ動く。銀のメタルのピアスが朝日にちかちかと光っていた。
「俺もたまたま……つか今日抜き打ちで制服指導入るって噂聞いたから……」
「保険かけてこの時間に来たのか」
「まあそんな感じ」
誤魔化すように箱川がへへっと笑った。そんな笑顔にびっくりする。俺はこいつがクラスメイトにガン飛ばしてるところしか見たことがない。
いつもつるんでる不良連中とはそりゃ箱川だって話すだろうし笑うだろう。けど、それが他のクラスメイトにも平等に向けられるものだったとは思わない。俺だって箱川といったら、不愛想で声が低くて、常に不機嫌そうで、汐のこといじめてるくらいにしか認識してなかった。
それが今、俺にこんな爽やかな笑顔を見せているのだ。きっと他のクラスメイトには見せないような顔を俺に向けてる。なんか不覚にもドキッとした。寝不足かな。
相変わらず教室には二人きりだ。会話をすることに必死になっていたけど、お互い口を閉じればとても静かだった。聞こえてくる音は朝練をしてる運動部の声だとか、昨日の放課後とたいして変わらないのに、朝だというだけでどこか違う。
窓の外はキラキラしていて、目の前の箱川も不良のくせしてキラキラしていて。対して俺はいつもの通りひよってる。
「……昨日」
箱川が口を開いた。顔を上げると、はにかむように笑っていて、思わず目を見開く。なんだか単発でSSRでも引き当てた時のような気分だ。というかもう、この笑顔自体がSSRだ。
「昨日、すげー楽しかった。付き合ってくれて、ありがとな」
「……っ」
び、びっくりした。こんな無邪気な笑顔は普段の仏頂面からは想像もできないだろ。やっぱりこいつ、ちゃんとかっこいいんだよな。凛々しい眉と三白眼ぎみのキツめの目元は確かに怖い印象を与えるかもしれない。への字に下がりがちの口元は常に不機嫌なように思えるかもしれない。
それでも、その唇を持ち上げて歯を見せて笑えば、なんだかレモンがはじけ飛ぶような爽快な笑顔になるのだ。
「あ、えと……俺も共闘すんの、初めてで……」
なんともか細い声が漏れる。蚊の鳴くような声に、箱川が眉を垂らせて笑った。笑いを堪えているように肩が震えている。そんな箱川を見て恥ずかしくなって俯いた。
「そうだったのな」
思いのほか穏やかな箱川の声が降ってくる。急かすでもないその言葉に、俺はもう一度顔を上げた。顔が沸騰したように熱かった。
「すげー楽しかった……」
気持ちを言葉にするのが下手な俺には、伝えることも上手くできない。噛みしめるようにそう言った。
「……ありがとう」
消え入りそうな声だったけど、ちゃんと聞こえてくれたらしい。箱川が爽やかに整っていた笑顔をくしゃりと崩した。
ガララとドアの開く音がする。その音が聞こえてきた途端、箱川は立ち上がると何事もなかったかのように俺の前から去って行った。教室へ入ってきた男子生徒と入れ替わるように教室から出ていく。一瞬のことすぎてしばらくは箱川が出て行った教室の扉を凝視してしまった。ちょうど同じ時間の電車で来たらしい生徒たちがぞくぞくと教室へ入ってくる。
気を使ってくれた、なんて思うのは自意識過剰だろうか。ただめちゃくちゃトイレに行きたかっただけとか? そうだとしてもクラスメイトに変な注目を浴びなくて済んだのは事実だ。孤立を貫いている地味な俺と、素行不良の箱川じゃ悪い意味で目立ってしまう。
暇つぶしにスマホを開いてみれば見たことのない通知が来ていた。ゲームのチャットだった。エンガワさんからメッセージが届きました、とポップアップが浮かんでいる。
『また付き合って』
似合わないニコちゃんマーク付きだ。嬉しいやら、恥ずかしいやらで心臓がぎゅっと掴まれたような気分になる。にやける口元に必死に力を入れた。
『次はヘル回そうぜ』
心の中は小躍りしてる。そわそわしながら、ちょっと迷って返信した。
画面を落とそうと思ったとき、通知がもう一件入っていることに気づく。瞬時に胃が縮こまるような、内臓が浮くような、ぞっとするような感覚が走った。
二件の連絡先しか登録していないキャリアメールに未読1のマーク。
『雪ちゃん、お弁当忘れてる』
なんだか淡い夢から現実に叩きつけられたような気分になった。
← 31/43 →