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芝生に座りこけたまま俺は動けなかった。唇が焼けるように熱い。鎖骨に残る昨日噛まれた痕がむずがゆい。たった一日前の出来事なのに、ひどく前のことに感じる。
園田は、何がしたいんだろう。それとも、園田が言うようにこんなことは本当に普通のことなのだろうか。友達になろうって。友達なら普通って。
友達、と言われて嬉しくなかったわけじゃない。むしろ嬉しかった。ちょっと嬉しかった。でもそれ以上に混乱している。
なんだか頭の中がすっからかんになった気分だ。びっくりした。ただでさえ園田は何を考えてるのか分からないのに、ああいうことをするんだからさらに分からない。
スマホを開けば、まだまだ五限まで時間があった。午後の授業に出たくない。なんだかそんな気分じゃない。胸騒ぎが収まらない。
もっと友達って、気が楽なんだと思ってた。園田と一緒にいるときみたいに常に心のどこかがざわついているような感じじゃなくて。箱川みたいに心地いい空気なんだって思ってた。なんなんだろう。こうやって関係に名前をつけようとするのが間違っているのだろうか。
ふいに眩しかった光が遮られ、頭上に影ができた。膝に伏せていた顔を上げれば、汐がいつものように整いすぎた微笑を浮かべている。さっきのような機嫌の悪そうなコワイ顔ではなく、ただいつもよりちょっと困った顔だった。
「……」
なんだろう。こいつの顔を見て安心とかしたくもないんだけど。ちょっとだけほっとしている自分がいる。
「……俺はね、雪巳がよければそれでいいって思うよ」
突然何を言い出すのだろう。主語というより、主体がないというのか。何の話をしているのかがまったく分からない。いつもと同じとろけるような甘い声が空気に絡まる。
伸びてきた汐の指が俺の唇にそっと触れた。親指の腹が唇を撫で、なんだかくすぐったかった。
「でもね、許せないことも、あるんだ」
屈んだ汐と目線が合った。相変わらず何の話をしてるのか分からない。いつも通りの柔らかい笑顔なのに、どこか硬くて苦しそうだった。
そんな汐に笑って見せる。いつもみたいに鼻で笑うように。歪んだ笑顔がどう受け取られたのかは分からない。汐はさっきよりも悲しそうに笑った。
「まぁお前、馬鹿なくせして以外と性悪だからな。根に持つタイプだったとは知らなかったけど。いや、別に知りたかったわけでもないし、どうせそんなん知っても何の意味もないんだけどさ。だって俺に関係ないし。汐が何を許すとか許さないとか、どうでもいいよね」
「雪」
「なに?」
汐の目はただ俺の唇に向いていた。眩しさでか細められた目から、明るい琥珀色の瞳がちらりと光る。
「……な、に」
時折見せるこの目の色が怖い。でも、それは怖いと同時に俺を安心させてくれるものの一つでもあった。ああ、汐はまだ俺を見てくれている、と。
「園田柊が好き?」
「は?」
答え終わらない内に、頭の後ろに手が添えられてぐっと引き寄せられた。目を見開く。石鹸の匂いが香り、とろけるような甘さが咥内に広がった。柔らかく、優しく抱きしめられて、吸いついた唇は離れてくれなかった。
「ンっ……ふ、う」
歯列をなぞるように汐の舌が咥内を犯す。上あごをこすられて変な感覚がぞわりと走った。息ができなくて、苦しくて、固まった俺の舌を探り出した汐の舌が絡みついてくる。甘い蜜のような唾液が何度も流し込まれ、出口を失ったそれは喉を通って落ちていった。こくり、と喉が上下する度に腹の底が熱くなる。飲み込みきれなかった唾液が口の中で混ざり合っては口の端から垂れていった。
酸欠になりかけて朦朧とした頭は馬鹿もいいところだ。頭に添えられた汐の手が丁寧な仕草で頭を撫で、そこから全身が痺れるように熱くなる。それは確かにもどかしく、体が震えるような気持ちよさだった。
酸素が足りなくて意識を手放しそうになった時、ようやく息苦しさから解放された。目の前はちかちかとしてはっきりと見えなかったけれど、涼しい風が入り込み、酔うほどの汐の匂いが薄れる。音を立てて息を吸い込み、目の前にいるはずの幼馴染に緩みきった表情筋でへらりと笑った。
「っは……へへ」
体中が熱い。腹の中も、顔も、手も足も、頭ん中さえも。酒に酔っぱらったらこんな気分になるんだろうか。意識も感覚も、ふわふわと、ゆるゆると。
ようやく開けてきた視界で汐は感情の抜け落ちた顔をしていたけれど、目が合えばいつものようにゆるりと笑った。その綺麗に弧を描いた唇を親指で拭ってやる。
なんでこいつは俺に園田が好きか、なんて聞いたんだろう。園田が好きなふうに見えたのかな。どんだけ俺のこと見てないんだよ。汐ならもっと俺のこと見ててよ。そうじゃないと寂しくて死んでしまうかもしれない。ははは、笑える。死んでみようかな。そしたら、汐は俺を食べてくれる。腹でも壊せばいい。ちゃんと俺のこと見てなかったからだよ。下痢になるくらいがちょうどいいよね。
「俺のこと、好き?」
汐の滑らかな肌に両手を添えて包み込む。日差しの下で透けるように光る目を覗き込みながら聞いた。ゆっくりと目を丸くした汐が、今度はうっとりとした微笑を浮かべる。それは嘘でもなんでもない、汐の笑顔。
「だぁいすき」
「あははっ」
そんな汐を笑い飛ばす。目が細められて、視界が狭まった。
「俺はお前のこと、だいっきらい」
うふふ、と笑えば汐は吹き出し、横目にどこかを見やると人でも食いそうな恐ろしい笑みを浮かべた。
「ふははっ」
ぽかぽかとした温かさが収まらない。いつもは不安なのに、常に寂しい寂しいなんて思っている自分がまるで他人のように思えた。笑い続ける俺に目線を戻した汐が呆れたように笑顔を見せる。
「知ってる。雪ちゃんは俺のことが大嫌いで大好きなんだよね。雪には俺だけ……ね?」
無意識に、思考も動きも一瞬止まった。
言い聞かせるように首を傾げた汐に、俺はただ笑って見せる。
どくん、と心のどこかが音を立てた。
それは小さな猜疑心だった。
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