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「園田とキス、したんでしょ」
ふいにとろけるような声が降ってきた。ハッと汐を見上げれば、さっきまでより熱っぽい目をした汐がうっとりと笑っている。そんな顔を見て背筋が粟立つと同時に、どこかほっとする自分がいた。
汐のどこにスイッチがあるのかはわからない。でも、いつものヘラヘラした気味の悪い笑顔ではなくて、このおどろおどろしく、それでいてひどく美しい笑顔が、汐が紛れもなく俺を見ているときに見せる笑顔だ。
ぞわぞわとした感覚が体の内側を駆け回る。賭けに勝ったような興奮だった。
きっと大丈夫。まだ、大丈夫。この笑顔が見れるうちは、汐には俺だけ。そうだよね。そうだよ。
「は、はは……だとしたら、なに?」
挑発するように汐に笑ってみせた。冷や汗なのか脂汗なのか、興奮なのか。何とも知れぬ汗が額に浮く。
汐の琥珀色の垂れ目がきらきら光り、形のいい唇が三日月型になる。甘い顔で熱に浮かされたように笑うと、堪らないとでもいうように体を震わせた。
「雪ちゃんのこと骨も残らないくらい食べちゃうよ」
「意味わかんねぇなキモ……っんぅ」
突然口の中に汐が指を突っ込んできた。ぐいぐいと咥内に押し入ってくる汐の指は、歯列をなぞり上あごを撫で、舌を引っ張り喉の奥まで突っ込んでくる。
思わずえずいてツンとした痛みが喉奥に走った。生理的な涙が浮かぶ。だらだらと溢れかえってくる唾液が、閉じられない口から垂れていった。それを反対の手で愛おしそうにぬぐい取った汐が、なんの躊躇もなしにその指を舐め取る。
「園田柊は嫌いだよ……雪巳がいいなら、それでいいけど。でも、違うよね?」
「ん……うぇ、なに、なにが」
「あいつのこと、好きじゃないでしょ」
そりゃ、好きとか嫌い以前の問題だろう。園田はただの友達……友達なのか?
汐は恍惚とした表情で喉奥を突いてくる。そのたびに涙と唾液が垂れていって、汐の瞳に映る自分の顔がひどいものになっていった。
「園田とキスしたんでしょ」
どろどろに甘い声がもう一度そう囁いた。
「……し、てない」
「嘘」
ふふっと汐が笑う。舌をもてあそばれ、思わずえずいて喉を締めあげた。
「……っ少しだけ」
「そっかぁ」
なんで汐はこんなに楽しそうなんだろう。ようやく指が口の中から離れていって大きく息を吸う。咥内がじんじんとした。
びりっという音が聞こえ目を向けると、汐が手の甲の絆創膏を剥がしていた。薄く血がにじんでいる。その傷痕を指で押さえつけ、伏し目になった汐が弾むような声音で口を開いた。
「でも嫌だったんだね。ふふっ」
ぷつ、と血が盛り上がっていく。汐の白くて綺麗な手にその赤はよく映えた。光を反射して、澄んだ赤色から目が離せない。おもむろに、血の付いた指が妙に妖艶な仕草で口の中に入ってきた。鉄の味が小さく広がる。汐の味だ。抜かれそうになった指を舐め上げれば、汐は満足気に笑って、そっと顔を近づけた。
ささやかな熱を間近に感じる。白い陶器のような肌が頬に触れた。
「じゃあ許せないね、園田柊は絶対に」
吐息が唇にかかったとき、しっとりとしたものが触れていた。ただ触れているだけだった唇が舌で舐められる感覚がする。唇を這う舌は前みたいに咥内へ侵入しては来ず、入念に唇を撫でてまわった。
もどかしい。くすぐったい。その先を知ってしまったから、早くその熱を交わらせてほしい。
自然と口が薄く開く。小さな隙間を縫って、汐の舌が侵入してきた。
まるで意識が溶けあうようなこの感覚が好きだ。汐が頭の中にまで侵食してくるようなこの感じが。ぐちゃぐちゃに入り乱れたお互いの精神が、ようやく澄んで一つになったようなこの感じが。
「俺は食べちゃいたいけど、食べられるなら雪巳がいいな」
「そんだけ外面いいんだから、中身はまずそうだな、お前」
口の中に広がった血の味を思い出す。唾液と一緒に飲み込んだ。汐の体の一部が、俺の中にある。意識した途端、燃えるように体の内側が熱くなった。
ああ、確かに。さびしくないね。ずっと求めてる他人の体温が体の中にあるみたいだ。
手を伸ばして汐の唇に指を触れた。汐が息を吐き出すようにして笑うと、指が熱い湿り気を帯びる。確かめるようにその艶やかな唇をなぞった。
俺のことをまっすぐに見つめる瞳を見上げて、目を細めて笑う。
「でも可哀相だから食べてあげるよ」
「願ったり叶ったりだね。嬉しいな」
ふわふわと笑った汐が俺の頬を包んで、もう一度口をつけた。
体にまとわりつく熱と、石鹸の匂いに混じった芳醇な香りは何なのか。甘い唾液を引いて離れていった汐がべっこうの瞳を細めてうっとりと笑った。
「俺が幸せにしてあげるよ、雪ちゃん。だから、安心してね」
一瞬だけ、汐の瞳にきつい光が浮かんだのを確かに見た。
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