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 「雪ちゃん…雪…ゆーきーみ!」

 ぺちぺちと頬を叩かれる。ゆっくりと目を開けば、見慣れた景色に空から舞い降りてきたばかりと言われても信じてしまうくらい整った顔。

 色素の薄い、柔らかいふわふわの髪の毛に、同じく色素の薄い透き通ったべっこう色の瞳。優しいたれ目を見ていたらふわふわと気持ちよくなってきた。ドラッグのような快感だ。

 「雪巳!」

 柔らかい声が俺を呼んだ。汐だ。今日も俺を起こしに来た。
 小さい頃から変わらない、甘い声に甘い顔。ひょこっと顔を出した汐の顔には、隠し切れない傷の跡。
 それを見た瞬間、目が覚めた。

 「うわ、きったねぇ」

 今日はまだ絆創膏をしていない。やっとかさぶたになりつつある傷跡は生々しさは薄れたものの、異物のように汐の頬にくっついていた。

 顔を顰めて汐を見れば、首をかしげてかさぶたに触れた。

「これ? もうそろそろよくなるんだけどなぁ」
「どうせまた殴られるんだし意味ねぇだろ。お前痛いとか思わないわけ? いっつもへらへら笑ってさ」
「痛いかなぁ…う〜ん痛い…かもしれない…」
「痛覚まで麻痺してんの? かっわいそうに」

 蛆でも見るように、汐にしっしと手を振る。帰れ、の意だ。通じたことはないけど。

 同じ高校に通っているとはいえ、一緒に通学するところなんて見られたくない。そもそも一緒に通学なんてしたくもない。なのになぜか毎日同じ時間のバスに乗って、並んで校門をくぐっている。いちいち汐が俺を起こしに来たり、俺が家を出るのを待ってるからだ。

 幸い、俺はこの地味を絵にかいたような目立たない見た目のおかげか、汐と並んでいても汐の知り合いと思われたことがない。たまたま通学中横に並んじゃった同じ学校の生徒くらいの立ち位置だ。

「着替えるから出てってくんない? もう制服着てんならさっさと学校行けよ。早めに行ったほうがいいんじゃないの? どうせ変な奴に絡まれるんでしょ」

 汐が絡まれるのはむしろいいと思うけど、俺自身は柄の悪い連中に関わりたくないんだ。ベッドから這い上がり、汐がいようが関係なくパジャマを脱ぎ捨てる。ワイシャツのボタンを寝起きのあやふやさでかけながら、声を上げてあくびをした。汐はしばらくそんな俺を見ていたけど、満足気に笑うと石鹸の匂いを残して部屋を出て行った。

「お弁当は机の上にあるからね! 朝ごはんは今おばあちゃんが作ってるよ!」

 なぜ俺の家の事情をたかが隣の家のこいつが伝えに来るのだろう。汐が出て行った後の部屋で一人になると、部屋がいくぶん暗く感じた。汐の奴、停電の時とか役に立ちそうだな。電源がなくても、汐がいると明るくなる。そしたら、近所に住んでる俺は勝ち組かもしれない。

 居間に降りて行けば、汐が言ったとおりキッチンテーブルの上にバンダナに包まれたお弁当があった。出来立ての朝飯も一緒に並んでいる。

 リビングに汐がいないのを見ると、今日は珍しく本当に先に学校へ行ったらしい。

 汐のいない朝の通学なんて久々だ。ものすごく気持ちがいい。歩いているだけですれ違う人みんなが振り返るわけでもない。むしろ俺のことなど見えていないよう。

 あまりの気分の良さに耳に突っ込んだイヤホンから流れる音楽の音量を上げたら、同じバスに乗っていた通勤中のおばさんに睨まれた。それすらも笑って謝れそうなくらい気分がいい。

 校門をくぐって昇降口に行くとき、ちらりと見えたグラウンド脇に制服を着崩した男子生徒が群がっているのが分かった。おそらく中心にいるのは汐だろう。結局早く行っても遅く行っても無駄だ。そもそもあのどんくさい汐が逃げられるはずがないか。

 下品な笑い声がここまで聞こえてくる。そのなかに混じった柔らかく深みのあるテノールを聞き分けられてしまう自分が憎い。また笑っている。何をされてもへらへら、へらへら。

 ひょっとして汐は、いじめられてることに気づいてないのか? どつかれ、殴られ、金をせびられることを仲良しの一環とでも思っているのか?

 悲しいことに汐のふわふわ頭じゃあながち否定できない。まったく嫌になる。どうして汐と無関係な俺が苛々しなきゃいけないんだ。いじめってやっぱりよくないよね。いくら当人である汐が平気な顔していても、周りに与えるストレスの強さをもっと自覚してほしい。

 人権なんてまったく無視したようないじめっこにももちろんストレスがたまるが、どんなことをされてもへらへら笑っている男のほうが見ていてストレスだ。

 寒気がするほど気持ち悪い。いや、気持ち悪いというより気味が悪いが正しいだろう。

 教室への廊下を行く途中、窓から汐が見えた。綺麗な顔でゆるりと笑う汐の瞳が確かに俺をとらえる。透き通るほど白い肌に、朝には黒いかさぶただった傷がめくれ上がり赤い血がにじんでいた。また痛々しいことになっている。朝は正しく着込んでいた制服も、今は襟元がはだけて乱れていた。

 汐の顔に傷をつけた人間はいつか神の鉄槌でも食らいそうだ。そのくらい、生傷を持った汐は犯されたマリア像のように淫靡で妖しく美しい。

 そんな汐が俺を見て、俺に向けて、頬を緩ます。どろどろの蜂蜜のような瞳がゆらゆらと揺れた。いったいそれはどんな感情だろう。汐は何を思って俺を見るのだろう。

 イヤホンから流れる音楽の音量を上げる。

 今日も今日とて胸くそ悪い。


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