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 目を疑う、とはきっとこういうことだったのだろう。
 頭を殴られるような頭痛を感じながら、汐の言葉を思い出していた。

 全ては暑さの見せる幻覚だ。いや、ただの悪夢だ。そう思うことで壊れそうになる何かを必死に守っている。

「遠くばっか見てたら足元掬われるよ?」

 耳に馴染んだ柔らかい声が俺ではない誰かに語りかける。俺は目の前に広がる光景に呆然と立ち尽くしていた。息を止めて、なぜか見入るように目を見開く。
 音が遠い。キーンと耳鳴りがして、周囲の音は水中から外の音でも聞いているように変な感じがする。それなのに、聞こえる会話は明瞭としていた。

「は? マジで意味わかんないけど。誰の気を引きたいわけ」
「そんなん最初から君に決まってんじゃん」
「冗談キツくね? 男に押し倒される趣味ないんだけど」
「押し倒す趣味はあるわけだ」

 ふふっと汐が笑う。ふはっと園田も汐の下で笑った。

「志島くんはかわいいから。ていうか見てたんだ、それ。趣味悪いね」
「そうかな。どっちもどっちなんじゃない?」
「志島くんのことはいいの?」
「さっきから言ってるよね。俺が興味あるのは君なんだけど」

 じり、と汐が園田に顔を近づけた。
 息を止め、ばくばくとうるさい心臓を押さえ、ただその光景から目が逸らせない。張り付いたように足はその場から動かなかった。顔は燃えるように熱いのに手足の感覚はもはやない。指先が冷えて震えてる。

 ……なに? なん、なの……?

 眩しい日の光を受けて、汐の色素の薄い髪が輝いている。体格のいい男に押し倒されて逃げ場を失った園田の髪はつややかに黒く光っていた。

「まぁでも、似てるところあるよね。君と雪巳は」
「あんな可愛げある?」
「刺が多いところかな」

 ふわりと笑った響きのよい声は飲み込まれていった。二人の男子生徒が重なる。芝生に埋もれた園田の手がひくりと震えた。指先まで電気が走ったように艶めかしい動きをして、その手に石膏のように白く綺麗な形をした汐の手が絡まる。指先が絡まる様は、まるで一つの情事でも見せられているように背徳的だった。

 たった数メートル離れたすぐ目の前で、いったい何が起こっているのか。彼らは俺に気が付いていない。心臓が喉から飛び出そうなほど激しく動いている。浅くなりそうな息がヒュッと音を立てた。
 昨日、汐が言った言葉が耳元に囁かれたように思い出される。あの脳が溶かされるようなどろどろと甘い声音がへばりついて離れない。

 ――明日は絶対に行っちゃ駄目だよ。

 がんがんと頭を殴られているようだった。乾いた目から生理的な涙が流れそうになって瞬きをする。
 何度も何度も角度を変え、園田と舌を絡ませる汐は、それでもやっぱり美しかった。二人の行為はキスだけにとどまりそうにない。そのくらい、情欲的で、激しくて、暴力的ですらあった。にも拘わらず、その二人はまるで絵画のような美しさを持っていた。

 汐の片方の手が、園田の制服の中に入っていく。その動きの妖艶さに声が出そうになった。園田が体をよじり、腰の青みがかった白い肌が目に入る。
 思わず両手で顔を覆った。早くここから立ち去らないと。これ以上見てはいけない。これ以上、見たくない。何かが決壊寸前のところで激しく揺れている。がくがくと体が震えていた。

 なんだよ。何なんだよ、これ。

 ふわりと顔を上げた汐が今までに見たこともない顔をしている。濡れた赤い舌をちらりと覗かせ、ゆるりと唇を舐める。
 息を飲んでその表情に魅入ってしまった。同時に心臓が大きな音を立てて、痛いくらいに胸を叩いた。

 美しい顔に浮かぶのは獣のように野性的な情欲なのに、触れられない神聖なもののような汐の美しさもそのままで、頬を染めた園田は儚げな顔を一層苦し気に歪めていた。
 現世のものではないような、そんな美しさで汐が笑う。
 目の前が黒い波に侵食されていくような錯覚を覚えた。パニックに陥った頭は許容量をとっくに超えてる。

 見たくない。見たくない。そんな顔を誰に向けてるの?
 
「ねぇ、園田くん。俺と――」


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