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「雪巳」
甘やかすような声が脳に響く。汐は嫌いだ。
いつどの記憶を掘り返しても、そこにいるのは俺と汐だけだった。俺の世界は年々狭くなっていく。中学校に進学しても、高校に入学しても、広がる世間に対して俺の世界はどんどん小さなところに閉じ込められていく。汐にがんじがらめにされたように、身動きが取れないのだ。
それは天使の羽に包まれたような安心感がある。見上げればいつも汐が笑っている。
「雪巳」
こうやって名前を呼ばれて、引っ張られて。これはいったいどんな蜘蛛の糸だろう。七色の美しい糸だろうか。黒く全身に絡みつく毒蛾の糸だろうか。
「俺には雪だけ。でも、雪には汐だけ。そうでしょ?」
俺の手を握った汐が、その手を汐の傷に持っていった。あざを伝い、傷痕に触れ、まだかさぶたもできていない生傷に触れる。皮膚の再生もされていない、人の体。体液のようなどろどろしたものが手に触れる。
体なんて入れ物に過ぎない。一皮めくれば皆同じ。きっと本体は魂だとか、心っていうものなのだろう。
綺麗な顔をした汐の体のいたるところにある醜い傷痕は、残念ながらそれがヒトの肉体そのものであることを示していた。そこに触れることを許される俺は、誰も触れることのできない汐のずっと本質的なものに触れているような気がした。
「雪巳、一緒にいたい?」
「うん」
「一人は寂しい?」
「うん」
寂しい。漠然とした不安と恐怖が心を占めてしまう。もうずっと前からだ。物心ついたときにはすでに一人に対する異常な恐怖を持っていた。それなのに、俺の周りにはろくに人がいない。母親もいなくなった。父親はもとより見たこともない。残ったのはばあちゃんと汐だけ。幼いころから俺を囲む人間は変わらない。
もしそれが変化してしまったら、俺はどうなってしまうのだろう。一人になってしまうのだろうか。俺を見つけてくれる人はいるのだろうか。
世界は広い。きっとどこかには俺を気にかけてくれる人だっているかもしれない。でも果たしてそうだろうか。
汐の体温しか知らない、汐の温かさしか知らない。ずっと俺の世界はたった一人を軸にまわってきた。
「俺には雪だけ。雪には汐だけ」
そっと汐が囁く。懐かしい言葉だ。この言葉をはじめて口に出した時、俺は今ほどこいつのことが嫌いじゃなくて、むしろ唯一残された光のようだった。
「……俺には、汐、だけ」
目の前のべっこうの瞳が綺麗に光る。吸い込まれそうなほど澄んだ瞳には、汚いものなんて何一つ映らない。嫌なことも、苦しいことも、辛いことも、痛いことも。
パニックになったように汗の拭きだした額が冷えていくのがわかる。陶器のような肌と、ふわふわの髪の毛、どろどろに溶かされた瞳を見ていれば、意識の深いところが浮くように気持ちよくなる。追い打ちをかけるように石鹸の匂いが体を包んだ。
安心する。不安がなくなる。温かい。寂しくない。
汐の傷をえぐった時の感触はまだ指先に残り、ほんのりと熱を持っていた。
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