よだるい


水底、水面、鏡





 海が見たい。何の気なし、安易に口から落とした言葉は対面に座す男にいとも容易く拾われた。
「んだよ、意外だな。アンタてっきり外に興味ないのかと思ってたぜ。連れて行ってやろうか」
 驚いた様な表情、それは直ぐ口端を引き上げ、挑発的なものに変化する。
「厭、いい。海を見ると感傷的になる」
「それこそ意外だな。なんだ、アンタでもそういうのあるんだな」
 再び表情は振り出しに戻り、次はまじまじという不愉快な視線も付録として加えられた。故意の視線を贈れば、色硝子越しにも認識することは出来たようで軽く肩を竦める動作を認める。
「アンタもちゃんと感情らしいもんが有るんだな。心まで凍っちまってるのかと」
「莫迦な事を……私にも感情はあるさ。貴様達よりも幾分か希薄というだけだ」
「そんなもんかァ? ……で、どうすんだよ。海、行くのか。」
 二度目の問いは幾分かの期待を孕んだものだった。特段に海が好きなようには見えないこの男が何故こうまでして固執するのかに、合点がいかない。其れは疎か、何故二度までもこの問いを与えているのか、それ自体にも考えが及ばない。
「……お前は行きたいのか」
「俺じゃなくてアンタだろ。もう少し素直に考えたらいいんじゃないか」
「何故」
 その言葉を待っていた、とでも言う様に男の口は再び意地悪気に引き伸ばされる。嫌な予感程当たる、ということを甚く認識する。
「その方がコイビトらしいだろう」
「世迷言だな」
「だが否定しない。案外満更でもないんだろう? なあご主人様(maître)」
 今度こそは答えが得られるだろうと、そういう確信の眼をしていた。これ以上はどちらかが根負けするまでこの堂々巡りが終わらないことなど明白であった。そうなれば大きなため息を吐かなくてはならないのは私の方だった。
 引き出しに仕舞っておいた空の薬瓶を奴の掌に載せれば、視線で説明を促される。
「解った、もういい。そして私はそこまで遠出する気もない」
「そうかよ。ンで、この瓶をどうしろってんだよ」
「お前だけ行って、これに何なりと詰めてくるがいい」
「詰めるって、何をだよ」
「何でもいい。気に入ったもの等詰めれば善いだろう。今回の仕事はそれだ」
 相手は暫し思案の表情を浮かべた後、合点とも諦観ともとれる返事をして、帰路についていった。私のこの返答は奴の納得のいくものでは無かったろうが、今は此れで良いと思えた。



 数日経って男は又屋敷に足を踏み入れた。当然定期契約日ではない。となれば当然思い当たる要件は一つしかなかった。足音は何時もと同じものであるが、心なしか機嫌が好いといっても相違無いかも知らない。出迎える義理はない。此れまでも出迎えたことはないし、今更ソファから腰を上げたところで立ち上がった時目の前の扉が開かれるのは明白であった。
「なんだ、今日はちゃんと起きてたんだな」
「運がよかったな」
「アンタ若しかして今日、機嫌いいか?」
「ふ、如何だろうな」
 幕間を挟めば切り替えるようにゆっくりと瞼を落とす様を見る。小振りな鞄から何時ぞや手渡した薬瓶を取り出す。それは初めよりも随分と彩を持って渡され、どこか人間が好んで作った小生態系(ビオトープ)のように感ぜられた。
「為る程。らしいと言えばらしいな」
「だろう。だが、矢っ張り、アンタ自身で行く事を勧めるぜ」
「視覚以外の体感が必要だと?」
「有体に言えばな」
 事実はそうだろう。男の言うところに相違が有るとは私も思わない。然しながら肌を焼く陽や塩辛い風の纏まり付く様は、決して心地の好いものとは言い難く、悍ましい存在とさえ感じるのだから。男は、そんな私の胸中が透けて見えているのだろう。其れだけではない、身体が弱い様を曝して仕舞えば、ある種気遣いからも強要は出来かねるのだろう。
「お前の好意は解り辛いと良く言われるだろう」
「生憎、アンタが初めてだぜ。まあ、アンタが行きたくなったら何時でも手でも足でも貸してやるさ」
「……そうだな。では、お前が堪らなくなったときに」
 挑発なのだ。互いが心臓を食い破り存在を確かめる為に。然し同時に男は酷く哀れで、愚かなほど痛々しい優しさで以てしか、印を刻み付ける代用に成りえないのだろう。解りきっている事だ。だがこうした論理も無意味な関係だという自覚も同時に存在し得るのだ。今は手渡された瓶の中身の様に、未だ奴の情愛を糧に呼吸をする魚で在ろう。




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