「ねえ相模さん。少しだけ時間をもらってもいい?」
慣れ親しんだ友人は、こうして気紛れに僕の部屋に訪れる事が増えた。彼は何をするでもなく、僕の少し後ろから此方を見ている。特に口をはさむでもなく、作業を中断させるでもなく、そうして居る事が常だ。でも今回はどうやら目的らしいものがあるらしい。
「構いませんよ。それで、一体何を?」
「うん、ちょっとね」
返事を受けて、また彼は嬉しそうに笑んだ。或いは少し悪戯っぽいその表情は、矢張り楽しそうに見受けられた。
その悪戯な顔の理由は直ぐに明らかになった。机へ投げ出した甲へ、控えめに掌を重ねられ、布越しに柔らかく温度が伝わる。そのまま、擽るとも撫でるとも言い難い強さで指先を触れ、浮かんだ骨をなぞる。
少しの困惑に、背後へ立つ彼を見れば、視線が交わる事の満足感か、頬を少し持ち上げた事を認めるばかりで、それを皮切りに今迄温度を隔てていた手袋へ指をかけた。
僕の手と手袋の狭い隙間を、白い指が侵す。蹂躙と呼ぶには余りにも穏やかな動作で、指先まで外気に触れる様になった。抜き取られた其れは机の上に置かれ、代わりにと色のついた小瓶を手に取った。
「マニキュア、ですか?」
「そう、相模さんに似合いそうな色だなあと思って、つい、ね」
品の良い青が詰まったガラスは、凡そ僕とは無縁の様にも思えたが、彼にはその問題は些細なものらしく、依然として楽しげな表情で僕の手を取る。
蓋を外して持ち上げれば、筆の様になった先端から、飽和した青がガラスの中へ納まる。必要以上の液体を瓶へ戻し、そうした後に、ゆっくりと筆が爪を撫でる。一本、また一本と爪に色が乗る。
「結構見たままの色なんですね」
「そうだね、かなりイメージ通りだ。矢張り相模さんの手に良く似合うね」
「ラバー君が満足なら、何よりですね」
確かめる様に改めて、両の手を取り、言葉通り満足げな視線がそこへ注がれた。程なくして手は解放されたが、視線によって再び自由を拘束される。
「ねえ、相模さん。折角綺麗に塗れたから、乾くまでの間は手を使っちゃ駄目だよ」
「…分かりました。けど、これはどれくらいで乾きますかね?」
「ん、俺が良いよって言うまでかな」
予め時間を確認されたことを、今になって強く意識する。マニキュアが乾く時間は可愛い程度だろう。真に彼の意図したものは、きっと僕が彼に割けなかった分の時間の埋め合わせなのだろう。そうなれば、彼の発言も納得がつく。半ば諦めた空気を悟った彼は、この後の予定が埋まったお礼と言わんばかりに、瞼に唇を落とした。
「お手柔らかにお願いしますね。折角もらった色が欠けたら悲しいですから」
今日で1番楽しげで、悪戯の成功した子供の様な顔をした彼が、僕の腕を引いていく。
彼の目の色に似た色は、もう充分に乾燥していて、シーツを汚す心配はなくなった。マニキュアがどのくらい残るのか、後は彼の采配次第。
「ああ、残念。やっぱり少し欠けちゃいましたね」
「…本当だ。でも仕方ないね、昨日はいっぱいいっぱいだったみたいだから」
「……それを君が言うんですか?」
「ごめんね。でも、相模さんが可愛かったから。でも、欠けたところがあったらまた継ぎ足してあげるから大丈夫だよ」