山森ナツヱ会長の生誕祭で振り回される弓岡

山森ナツヱ、ヒハク石鹸の会長である彼女は本日一月二十二日に誕生日を迎える。
会長の生誕日となれば毎年会場を貸し切って行われるのだが、今年も例に漏れず社外内問わずたくさんの参加者が受付ボードに記帳をしていた。

閑静な住宅街の中にある会場は、日本庭園が臨める邸宅だった。結婚式場としても利用されるそこは、会食や同窓会でも貸切可能で、メインホールには百名ほどを収容できる広さである。

誕生日パーティーでは特に何か催しがあるわけではないが、山森ナツヱを尊敬し信頼している人々たちが集まることで会長秘書の機嫌は良いようだった。
良いようだった、というのは、その男の表情が読めないからなのであるが。

男は会長のそばに立ち、ブッフェスタイルだというのに食べ物はおろか飲み物すら口にしていない。

「弓岡、また辛気臭い顔してたよ。せっかくおばあさまの生誕パーティーだっていうのに」
「……ナマエ様」

山森ナツヱには孫娘がいる。一本の糸で頭から吊られているような姿勢の伸びと、小さな歩幅で弓岡へ近づいてきたその様はおあつらえ向きの“会長の孫娘”として相応しいように見える。

「ねえ、おばあさまに見繕ってもらった着物なの。どう? 似合う?」
「ええ、よくお似合いです」

普段の仕事で身につけているスーツとは違い、菊の文様が描かれた着物を召したナマエはどことなく淑やかに見えた。

「弓岡は……いつもよりなんだか背が高く見える」
「今日はあなたのお履物が低いからでは」

弓岡と同じく秘書として働くナマエは、縁故採用にも関わらず山森の姓のまま毅然とした態度で、もちろん弓岡にもその態度は適用されていた。

縁故採用予定とはいえ最低限の教養は必要だとして短大に入れられたナマエは、卒業後に形だけの面接と筆記試験を受けてヒハク石鹸に入社した。山森ナツヱの孫娘が入社したとあって、社内ではナマエの顔色を窺う輩が多かったが、関係性を聞いても眉ひとつ動かさなかったのが弓岡だった。

「ほら、飲み物取ってきたからどっちか飲めば?」
「ありがとうございます」

ナマエの手には二つのワイングラス。白と赤だろうか。

「……ナマエ様はどちらが飲みたいのですか」

弓岡は一応、彼女の好みを聞いてやる。山森会長と血が繋がった彼女だからこそ無碍にはできず、幼い頃から何をされても言われても異議を唱えたり抵抗したりすることはなかった。

「うーん、どっちでも。弓岡がワイン飲んでるところ見たかっただけなの。だからどっちもどうぞ」

生意気な小娘が、とは口に出さなかった。小さいときから堂々としていて“自分が正しい”と疑わないナマエが、弓岡の青筋を立てさせることはたびたびあった。彼女の学生時代を知る弓岡だったが、数年経ってもそれほど変わらない。あくまでも山森ナツヱ会長の孫娘である彼女に対して、苛立ちをあらわにしてはいけないと何とか正気を保ってはいたものの、何度か自分の心が保てず危ういときもあったことは本人には内緒である。

「おいしい?」
「はい、どちらも口当たりよくおいしいですよ。飲んでみますか?」
「じゃあ赤いほうもらってこようかな」
「いえ、ナマエ様はそこでお待ちください。わたくしが」
「わざわざいいのに。でも、ありがとう」

どうせ会長は挨拶や情報交換等で忙しい。手持ち無沙汰な今だからこそナマエに構うことができる。

まもなく戻ってきた弓岡がナマエへグラスを差し出した。二人の乾杯によりグラス内でほんの少し揺れる赤。薄いリム部分に彼女の唇がかかる。

「……そんなに見ないでよ」
「そういうつもりはなかったのですが」

じっとりとした視線を感じたナマエは、思わず居心地悪そうに目を逸らしてしまう。喉を大きく鳴らしてしまったのではないか。口紅がグラスのふちに付いてしまったのではないか。見た目だけが気になって仕方がなかった。

見た目といえば。思い出したようにナマエが弓岡のことをあけすけに言う。

「そうそう、弓岡はいずれわたしの秘書になるんだから、並んで見劣りしないように励みなさい」

山森ナツヱが築いた地位と社会的評価は計り知れない。しかし、人はいずれその地位を退くことになる。そうなれば、遠くない未来でナマエが昇進するかもしれない。

「……会長はまだ現役です。それに、あなたに尽くすかどうかはわたくしが決めます」
「ヒハクに骨を埋めるしかない男が何を言っているの」

目の前の小娘に付き従うかどうか、将来は今のところわからない。弓岡がヒハク石鹸にいる以上は、今後もナマエの無遠慮な物言いに苦労するのだろう。

「ところで弓岡って今いくつなの?」
「三十六になりました」
「へえ、じゃあ今年で三十七歳かあ」
「いえ」
「ん?」
「今月、年を重ねたばかりです」
「えっ、ほんと!? 今まで全然誕生日アピールしなかったよね!?」

そういえば年齢を訊ねたことはなかった。聞けば、すでに誕生日を過ぎていると言うではないか。

「わたしに黙っていた弓岡には罰を与えます」
「……なんでしょう」
「弓岡の誕生日会を開きます! ただし、参加者はわたしと弓岡だけ! 残念だったね。おばあさまみたいに盛大にお祝いはしないよ。お祝いするのはわたしだけ。誰にも祝われない寂しい弓岡のことはわたしが来年も再来年も幸せにしてあげるからね」

ナマエが弓岡の肩を慰めるように叩く。お気遣いありがとうございます、と感謝の言葉を述べた弓岡は会長のもとへ去っていく。

ひとり残されたナマエが、ふと気づいてしまった。

「……わたし、語弊あること言っちゃった気がする」

語弊があっても、弓岡なら間違いすら起こらないだろう。そう思って訂正せずに呑気にかまえていたのだが、彼の遅刻誕生日会で形だけでも山森姓をくださいと迫られたのはまた別の話。