ラッキースケベをきっかけにアオキさんと距離が縮まる話

地下の倉庫は、リーグの事務室に保管する期限が過ぎたものやその他もろもろ、“いらないがいるもの”が雑多に押し込められている部屋だ。アオキは上司から「倉庫にある筈の資料を取ってきてほしい」と言われたものだから渋々向かっているところである。人気のない倉庫に行くのはあまり気乗りしないが、時間を潰す口実になるなら、とやむなく引き受けた。

キーボックスには倉庫の鍵はすでに無く、どうやら先客がいるようで、あいにくそこで羽を伸ばすことはできなさそうだ。鍵の貸出表には同僚である“ナマエ”の名前が書いてあり、まあ彼女が先客なら二人きりでもいいか、とアオキはちゃっかりと人を選んでいた。

期待どおり、倉庫にいたのはナマエ一人だった。あまり人が立ち入らない場所だからか、中は埃っぽく、少し薄暗い。奥を覗き見ると、ナマエは踏み台に乗りながらどうやら書類を探しているようだ。アオキが声をかけるか迷っていると、手の届かないところに目当てのものがあるらしく、踏み台の上でつま先立ちになり身を乗り出している。後ろから見ればタイトスカートに包まれたそれが形よく丸いのがわかる。スーツのジャケットは脱いできたのだろうか、白いブラウスに埃がつかないよう気を遣っているようだった。
自分が代わりに取れば簡単だが、彼女をじっと見ていたい気分でもあった。ただ、ナマエがもし落ちて怪我でもしたらどうだろう。そちらのほうが気分が悪い。

「……ナマエさん、よければ取りますよ」

「あっ! アオキさん! いいところに来てくださいました……!」

どうもわたしの手では届かなくって。そう言うとナマエはゆっくりと踏み台から降りようとしたが、下段を踏み外し、後ろへバランスを崩した。

「危ない……!」

アオキが咄嗟に腕を伸ばし、ナマエの腰を掴んだ。アオキの両の手は、ふにっとやわらかい感触に包まれた。
女性の腰とはこんなにも弾力性のあるものだったか。顔を真っ赤にさせたナマエが「アオキさん、それ、あの、おしり……」と言うものだから、何も考えないようにして踏み台から彼女を降ろした。思わず掴んだ部分が腰ではなかったことと、アオキは内心好意を持っている女性に触れた幸運を喜ばしく思う反面、セクハラで退職願を書くべきか悩んだ。





不可抗力とはいえ、同僚の尻に触れてしまった。その日は幸か不幸かアオキは一日中仕事が忙しくナマエのことなど思い出さずにいたが、帰宅していざ一人になると、手の感触がまだ記憶に残っていることに気づいた。少しのあいだ触れただけの彼女を反芻している自分が嫌になる。とはいえ、自分もまだ男だった。その夜は久しぶりに自身を慰めた。





悶々とした日々を過ごしていたアオキをさらに悩ませる出来事があった。それは外回りやジムの仕事が思ったよりも多く、帰社できたのが日が沈み始めた日のこと。夕方にクライアントが来社していたようで、来客スペースが賑やかだった。ナマエもその対応に追われており、彼女の手が空いたのは終業時間を過ぎてからで、そのあとは自席で伸びをして体をほぐしつつ仕事をしているようだ。その場面をばっちり見てしまったアオキと、視線が合ってしまったナマエはアオキに向かって手招きをした。

「アオキさん、ちょっと休憩しません?」

なんて甘い言葉。いたずらっぽく笑う彼女が休憩室へと誘う。アオキは早く家へ帰りたいのが一番だが、まんまとナマエの思惑に乗せられていた。

休憩室には、他の誰もいない。冷蔵庫が動く機械音だけが響いている。そこから白いケーキ箱を取り出したナマエは、なぜか小声でアオキに囁いた。

「アオキさん見てください、まるごと桃のタルトです。先ほど得意先の営業さんからいただきまして。“二つありますから食べましょう”って言われたんですけど、じゃあ仕事終わりにゆっくりいただきますね、って返したらかなり渋い顔をされました」

アオキには何となく察しがついていた。その営業マンはナマエのことを好ましく思う一人で、気づけばナマエの周りにいて常に明るく話しかけているような男だ。自分とは正反対だな、とも思っていた。しかし、ナマエは平然と彼のことをつっぱねているようで、アオキは安堵していた。彼女は天然でそれをやっているわけではなく、ある程度計算しての行動だった。仕事上、彼をおおっぴらに拒否できるかと言えばそれはNOであり、公私を混同しない彼女の立場に、アオキは以前から惹かれていた。

まるごとの桃を使われたタルトは瑞々しく、透明感あるジュレによってきらきらとしている。つややかな輝きは、ナマエの透き通る頬のようだと思った。彼女はタルトを皿へ移すと、アオキにフォークと共に渡した。狭くない休憩室に二人、横並びで座る。

桃、か。

アオキの頭によこしまな考えが横切った。それもそのはず、ナマエのお尻に触れてからというものの、触れたのは衣服の上からだったはずが、どうも淫らな妄想がアオキの頭を駆けめぐり、衣服の下を想像するほどであった。桃というフルーツに罪はないが、仕事で疲労したアオキの脳にはナマエのことばかり浮かんでは、いけないことだと何度も妄想を消していた。

「ねえアオキさん」

ふとナマエの口から自分の名前が呼ばれる。瑞々しいのは目の前にある桃と彼女の唇も同じで、うるおいを持ったそれはアオキの心を揺さぶるのに十分だった。ごちそうを前に、喉が鳴らないよう制する。

「もしかして、わたしに思うことありませんか? 今までそんなことなかったのに、あの日からアオキさん、目を合わせてくれない」

図星。心臓がびくりと跳ねた気がした。しかも、ナマエは“あの日”のことを持ち出した。あの日とは、倉庫での出来事があった日だとすぐにピンと来た。確かに、ここ数日間は彼女を避けていた。仕事が忙しいのはもちろんだったが、ナマエの姿を見ると一人の夜を思い出しては浮ついてしまう自分がいたからである。

「アオキさん、わたしに何か言いたいこと、あるんじゃないですか?」

アオキのことは何でも知っている、とでも言いたげな表情で笑う。言いたいこと、とは。ナマエの身体に触れてしまったことへの謝罪か、はたまた辞表を出しますという言葉を待っているのか、もしくは。

いや、これはナマエが作り出したチャンスなのかもしれない。自分の感情を曝け出すための。こうでもしないと行動しないアオキに、きっとせがんでいるのだ。

「あなたと……ナマエさんといい関係になりたいと思っています」

言い慣れない言葉を紡ぐ。それも、この先へ進むため。しかし彼女はもう一声ほしいなあ、とねだりながら自身の小さな手をアオキの太ももに置き、見透かすように微笑んだ。

「……ナマエさん、意外と欲張りですね」

「そうですか? わたし、好きな男性にはちゃんと言葉にしてほしいんです」

もはや彼女からの気持ちは確信したようなものだ。年甲斐もなくナマエに惚れてしまった身としては、隠し続けていくものだと思っていたが、どうやら彼女も自分と同じ気持ちらしい。

「……好きです、ナマエさん。自分と結婚を前提に付き合ってくれますか」

「はい、よろしくお願いします……って、結婚?」

「ええ。あの日のこともありますし、責任を取ります」

今にも切腹しそうな勢いのアオキは、どうやら脳内で責任を感じているらしい。同僚、もとい彼女の尻に触れた責任を。

「いや、気にしてませんよ、あれくらい。それにいくらなんでも、気が早いというか……」

むしろこれから尻以外にも触れるだろう、とナマエは言いたかったが言葉をおさめた。今そんなことを言ってはアオキの身体目当てだと思われかねない。ただ、アオキはナマエに何を言われてもさほど気にしないだろうが。

「お互い成人していますし、決断は早いほうがいいかと。それにナマエさんも無駄な業務は省きたいでしょう」

「えっ、お付き合いのこと業務だと思ってるんですか!?」

失言だった。そんなことはまったくなく、言葉のあやである。ナマエが目をくりくりさせて驚いているあいだにアオキは考えることにした。彼女と付き合うことを仕事だとは思わない。ただ、お互い成人しているのは確かで、結婚という目標なり目的なり、見つめるところは同じほうがいいと思ったのだ。曖昧にだらだらと付き合うだけも楽しい日々だろうが、彼女と気持ちを育むためには時間も労力も限られている。また、彼女に安心させたいというのが一番であった。

「あの、ところでアオキさん、こないだのことは謝ります」

はて。彼女が自分に謝らねばならぬことなどあっただろうか。いまだ太ももに置かれた手が、アオキのそこをするすると撫でた。そして内腿のあたりで止まった。

「足を踏み外したの、わざとです」

「…………え?」

「アオキさんに抱きとめられたいなって。優しいアオキさんなら、きっとそうしてくれると信じてました。……あのとき、倉庫に来てくれたのがアオキさんでよかった」

部屋は暑くないはずなのに、ナマエは頬をしっかりと桃色に染めている。今の今まで、アオキは彼女の手のひらでころころと転がされ、そして甘い蜜で誘惑されていたにすぎない。しかし、それだけで終わるアオキではなかった。伊達に非凡サラリーマンの肩書を持っているわけではない。ここはナマエにかっこいいと言わせたい。そして、あわよくば惚れ直してほしい。アオキはずいぶんと長考していたが、ようやく重い口を開いてこう言った。

「ナマエさんのおしり、もう一度ちゃんと触らせてください」

あろうことか本音が出てしまったアオキが自身の発言に後悔するのは、さて何秒後だろうか。