とある
五月の昼下がり

 コーヒーショップのテラス席を抜ける風がとても爽やかな、五月の昼下がり。だがこんな素晴らしい陽気の中で、私はひどい手汗をかいている。なぜなら、これから大切なひとに、重大な話をするつもりだからだ。

「どうしたの?」

 コーヒーを片手に黙りこくっていた私を案じたのか、なまえが不安そうにこちらを見上げた。それに「なんでもないよ」と微笑みを返し、気を落ち着けるため、互いの手元にある飲み物を見つめる。
 彼女の手には甘いフラペチーノ、私の手にはアーモンドラテ。

「あ。もしかして、これ、ひとくちほしいんでしょ?」

 私から滲み出ている重たい空気を変えようと思ったのだろう。なまえが私の目の前に、クリームたっぷりのスプーンを差し出した。
 正直な話、胃袋のない私にこの量のクリームは今の空気よりよほど重い気がする。しかしせっかくのご厚意だ。思い切って、ぱかりと口を開けた。

「おいしい?」
「うん。甘くておいしいよ」
「よかったあ」

 なまえが心から安堵したように、笑みを浮かべた。なんということだろう。それだけで、私の緊張は一気にほぐれ、心があたたかいもので満たされてしまう。

 これが人を愛するということだ、と、しみじみ思った。君の笑顔を見ているだけで、私は世界一幸福な男になれるのだ。
 私はいままで、「オールマイト」として、世のため人のために己の人生を捧げてきた。けれど巨悪を倒すことができた今、「八木俊典」というひとりの男として、私のすべてを君に捧げたい。そして君のこれからの人生を私に預けてもらえたならば、どれほど嬉しいことだろう。

「大事な話があるんだ……」
「なあに?」

 こちらを見つめる彼女の瞳は、五月の空のように明るく、そして優しい。

「私の妻になってもらえないだろうか」

 なんとか言葉を絞り出し――だが余裕ぶって――彼女の左手を取り、薬指に唇を落とす。するとなまえは頬を染め、うんと小さくうなずいた。

 テラス席を渡る風は柔らかく爽やかで、萌える若葉は陽光を弾いてきらめいている。そんな幸福な、五月の昼下がり。

初出:2025.5.18
- 87 -
prev / next

戻る
月とうさぎ