俊典がそう言いながら寝室の扉を開けるのと、目覚めたわたしが身体を起こしたのが同時だった。
ありがとう、と、返して彼を見上げる。なぜって、俊典は足つきの大きなトレイを持っていたからだ。見覚えのない物なので、おそらくこの日のために買ったのだろう。丁寧な暮らしを好む俊典は、こういった小道具に凝る。
そしてその真新しいトレイの上には、朝食が置かれていた。
つまりは海外ドラマでよく見かける、ブレックファスト・イン・ベッド。
わたしの好きなイギリスのドラマで、ベッドの上で朝食をとるシーンがよく出てくるのだが、見ながら「一度やってみたい」と言ったことがあった。おそらくはそれを覚えていてくれたのだろう。
メニューは厚手のベーコンとソーセージ。ポーチドエッグに焼きトマト、ベークドビーンズに三角形にカットされたトーストだった。飲み物はもちろん、本場の茶葉を使った紅茶で、あのドラマの通り、イギリスのブレックファストだ。
本当はね、と照れ笑いしながら、俊典が告げる。
「ブラックプディングも入れたかったんだけど、なまえは苦手かもしれないな、と思って今回はやめたんだ」
ブラックプディングは豚の血と脂にオーツ麦や香辛料やハーブをくわえて腸詰めにした、いわば血のソーセージ。正直な話、わたしはあまり得意ではない。
だから俊典の配慮に「ありがとう」と微笑んだ。
「そしてね、今日一日、私は君だけのものだ。なにせ、引退してはじめて迎える君の誕生日だからね。邪魔が入らないよう、携帯端末の電源も切っておいたよ」
足つきトレイをベッドの上に置きながら、俊典も微笑む。
端末の電源を切るだなんて、出動要請がひっきりなしだった現役ヒーロー時代には、いや、オール・フォー・ワンが健在だった頃には考えられなかったことだ。マッスルフォームが維持できなくなっても、彼はいつも、気を張り詰めていた。
「今日はふたりきりですごそう。どこか行きたいところがあったら言って。平和の象徴の名にかけて、どんなところでも連れて行くよ」
そうウインクして、俊典がポットの紅茶を注いだ。こぽこぽ、と小さな音をたて、冴えた水色の紅茶がボーンチャイナのカップを満たしていく。と、紅茶のよい香りがふわりと漂ってきた。白いカップの中で揺れる、茶褐色の液体がとてもきれいだ。
「でもそのまえに、お互いおなかを満たさないとね。といっても、私胃袋ないんだけどさ」
と、どこかで聞いたような自虐的なギャグを交えて、俊典がわたしの隣――つまりはベッド上――に移動してくる。
「さあ、なまえと私の年齢がひとつ縮まった日の、最初の食事をいただこうじゃないか」
「おいしそう。いただきます」
両手を合わせてから、ふたたび彼を見上げた。
かつて俊典の眉間には、彼のいきざまの過酷さを物語るように、深く刻まれた皺があった。暗く落ちくぼんだ眼窩の奥の青い瞳は、常に厳しい光を湛えていた。だが、今、それらすべては失われている。
俊典の性質を物語るような、柔らかでおだやかな表情だけが、ここにはあった。
「ん? どうかした?」
「しあわせな誕生日だな、って思って。ありがとうね」
「そりゃ私のほうこそだよ。君がこの世に生まれてきたことを祝わせてくれてありがとう。さあお姫様、さめないうちに召し上がれ」
と、目の前に、一口大に切られたベーコンが差し出される。わたしは口をあけて、それを受け止める。
ああ、ほんとうに、なんて幸福な誕生日の朝。
そう思いながらゆっくり目を細めると、俊典もまた、嬉しそうに微笑んだ。
2025.8.21
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