夏の芝浜

 八月最後の週末に浴衣を着て寄席に行こう、と言い出したのは彼だった。
 わたしも和装は好きなので、浴衣や夏着物を何着か持っている。どれにするか迷いに迷って、菜の花色の濃淡ぼかしの格子柄を選んだ。いわゆる吊しではなく、反物から仕立ててもらった長着だから、やはり着やすい。生地はさらりとしたシボが特徴の阿波しじら。今回は下に襦袢を着て、麻の名古屋帯をお太鼓に結んだ。つまりは単衣のお着物ふうに。

***

 メトロの階段を昇って少し歩くと、目的の建物が見えてきた。ビルの谷間にちょこんと存在するそこは、日本最古の寄席だ。
 入り口には大きな提灯と、芸人さんたちのお名前がずらりと並ぶ看板。いくつかある幟のなかで、もっとも大きいものに書かれているのが本日トリをつとめる落語家さんのお名前だ。そしてその大きな幟の前に、俊典さんは立っていた。

「ごめんなさい。待たせてしまって」

 俊典さんは先の戦いで重症を負った。今は普通に歩けているが、一時は車椅子での生活を余儀なくされたという。だから待たせることがないよう、待ち合わせの時間よりほんの少し早く着いたつもりだったのに。

「いやいや。まだ約束の時間になっていないよ。実はさ、私、今日のデートがあまりに楽しみすぎて、早く着いちゃったんだ。私のほうこそ、気を使わせちゃってごめん」

 頭をかきながら、俊典さんが照れくさそうに笑う。
 そんな彼が着ているのは、わたしと同じ阿波しじら。といっても、色合いや柄が違うのでお揃い感はあまりない。俊典さんの浴衣の柄は、細めの鰹縞。勝色から深縹、青に白藍と変化していく縞が美しい。それに黒い麻帯を片流しに結んでいるのが、なんとも粋だった。

「なまえ。君の浴衣……いや着物かな? 素敵だね。よく似合うよ」
「ありがとう。あなたも粋ですてき」
「そう言ってもらえると嬉しいな。ねえ、その帯の柄、かき氷かい? 夏らしくていいな」
「涼しげに見えれば……と思って」
「うん。淡い色合いが君によく似合うし、涼しげでとてもいいよ。見てたらなんだかかき氷が食べたくなっちゃったな」
「帰りに食べましょ」
「いいね」

 などと話しながら、寄席の入り口をくぐった。

 キリのいいことに、ちょうどお仲入りの時間帯だった。おそらく俊典さんは、それも見越して待ち合わせ時間を決めたのだろう。一階席はすでに満席だったので、二階席へとあがった。

 こういう場で、自身の背が高いことを俊典さんは気にする。なのでわたしたちは、一番後ろの席に陣取った。二階席からは、想像していたよりも高座がよく見える。

 実のところ、落語は好きなのだが、古い音源や動画を見るばかりで、生で聴くのは始めてだ。

「寄席に来るのって、初めてなの。ちょっとドキドキしてる」
「誘っておいてなんだけど、実は私もなんだよ」

 懐からふたたび扇子を取り出して、首元を仰ぎながら俊典さんが言った。意外だったが、よく考えたら、それも当たり前のことかもしれない。

 俊典さんはずいぶん長いこと、平和の象徴として世のため人のために尽くしてきた。いつ出動要請がかかるかわからない状態では、生で舞台や演芸を楽しむ時間などほとんどなかったに違いない。そういえば、少し前に映画を観にいった時も、「映画は大好きなんだけど、劇場で観るより、家でサブスクを利用したり購入した円盤で観たりすることの方が多かったんだよね」と言っていたっけ。

「どうかした?」

 不思議そうにこちらをのぞき込んできた彼に、いいえをこたえる。と、俊典さんは扇いでいた手を止めて、中骨に勝虫の中彫が入った扇子を、ぱちりと閉じた。

「そろそろ始まるね。ワクワクするなあ」

 少年みたいに目を輝かせている俊典さんを見ていると、こちらも嬉しくなってしまう。
 やがて太鼓の音が鳴りはじめ、次いで後半の披露口上が始まった。

***

 「オールマイト」は笑顔でいることがほとんどだけれど、「八木俊典」として見せるのは笑顔だけではない。彼は実に表情豊かだ。
 怪談噺に怯え――物理で倒せない敵は怖いらしい、滑稽噺でよく笑い、ちょっとエッチな漫談に照れ、そして大トリの演者による人情噺では――。

「……ううっ」

 と、俊典さんが声を漏らし、懐から出した手ぬぐいで目元を拭いた。
 そう。優しい彼は、人情噺で大いに泣く。

 演目は夫婦の情愛を描いたもので、年末に演じられることの多い噺だった。夏場に演じられることは珍しい。当然だが、細かい部分が夏向けにアレンジされている。

 わたし個人としては、古典は原典を大切にそのままに演じてもらいたい。けれど、真剣な表情で噺に聞き入り、涙を拭き拭きずずっと鼻をすする平和の象徴様を見ていたら、そんなことはどうでもよくなってしまった。

「よそう。また夢になるといけねえ」

 というお決まりのサゲに、わたしも大きな拍手を送る。

 追い出し太鼓が鳴り、少しずつ人がはけていく中で、俊典さんはまだ目尻を押さえていた。

「……ごめん。こんなおじさんが声だして泣いたりして、恥ずかしいよね」

 ごくごく小さな声で、少し恥ずかしそうに、彼がささやく。返事の代わりに彼の大きな手にそっと触れ、ゆっくりと首を振った。

 泣きたいなら泣いていい。
 ずっと、世のため人のために戦い続けてきた心優しい元ナンバーワン・ヒーローが、人情噺に涙する。そんな時間があってもいいと心の底から思うのだ。

「……ありがとう」

 そう言って彼は目元をもう一度だけ拭い、立ちあがった。はにかみながら。

「とてもいい演目だったね。その……君さえよければ、また誘ってもいいかな」
「もちろん。かき氷はどうする?」
「当然食べるさ」

 ぱっと扇子を広げて、俊典さんが笑んだ。扇面は無地の茄子紺で、扇骨は白檀。そして中骨には勝虫の中彫。
 それを彼が、ぱた、と仰ぐと、扇の白檀と彼のつけている白檀ベースの香水が、ふわりと香った。

 ああ、本当に幸福だ。
 どうかどうか、この平和なひとときが夢になりませんように。
 そう願いながら、わたしは彼と手をつなぐ。

2025.10.4
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