一八短夜

 今夜は風がつよい。
 庭の孟宗竹が夜風に煽られてざわざわと音を立てている。まるで今宵のわたしの心のように、竹はざわめく。
 今宵の客人はわたしの想い人。
 わたしは彼を迎えるために、普段着である木綿の長着を脱ぎ、紬の単衣に着替えた。少しでも肌が白く綺麗に見えるよう、選んだのは墨色の塩沢。帯はさんざん迷って、白練の絽綴れを選択した。
 髪はおかしくないだろうか。お化粧は崩れていないだろうか。

「ご命日を大きく過ぎた上にこんな時間になってしまい、申し訳ありません」
「いいえ、お待ちしておりましたわ」

 長身痩躯を律儀にも黒いスーツで包んだそのひとが、すまなさそうに身をかがめた。
 十年前のこの月の朔日、わたしはヒーローだった父を亡くした。オールマイトはそれ以来、六月になると線香を手向けに我が家を訪れる。
 父を亡くした当時十代後半だったわたしも、今ではそれなりの年齢になった。

 オールマイトの訪問はたいてい昼間が主だったが、多忙な彼のこと、予定通りに事が運ばないこともある。
 今日も丁寧に、遅くなってしまうがお線香だけでもあげさせてはいただけないだろうか、と打診があった。無論わたしがそれを断るはずもなく。

 オールマイトが仏壇に向かって手を合わせる。
 痩せてしまっても、ヒーローの時と同じようにまっすぐ伸びた背からは凛とした風情がただよっている。その生き方と同じような、一本筋の通った美しい姿勢。
 けれどはじめてその痩せ衰えた姿を目の当たりにしたときは、腰を抜かさんばかりに驚いたものだ。
 あなたに嘘をつくのは憚られてと告げられた時、自分が彼にとって特別な存在であるかのような勘違いをしそうになった。優しさは時に残酷だ。
 父がヒーローであったがゆえに、わたしはヒーローに関する秘密保持の遵守が身についている。彼が秘密を明かしてくれた理由は、おそらくそれだけであろうに。

「なまえさん、実は」
「オールマイトさん、よろしければお茶だけでもさしあげたいのですが」

 オールマイトの口から出るであろう言葉が怖くて、わたしは彼の声を遮った。それに対する返答は予想通りのつれないもので。

「いや、私はこれで……」
「今日は特別な日でしょう? それに、この広い家にひとりでいるのがさみしいんです。たまには誰かとご一緒したくて」

 わかっている。女一人暮らしの家にあがり込み、飲食するような男性ではない。だがこういう言い方をすれば、優しいこのひとは断らないだろうと思った。
 我が家は数寄屋造りの純和風建築だ。平屋だが、広くて部屋数だけは無駄におおくて、ひとりの夜は本当にさみしい。

 では少しだけと答えたオールマイトを仏間から客間へと通し、わたしはいそいそと台所へ向かう。
 夕飯を済ませてきたという話だったが、膳には水出しの緑茶と軽くつまめるものを用意した。
 胃袋のないオールマイトは、幾度にも分けて食事をするときいている。だから少しでもお腹になにか入れてもらおうという、些細な配慮。
 茶器は津軽びいどろ。彼の瞳の色と同じ青いガラスをいろどる、彼の髪と同じ色をした金彩。
 わたしの気持ちは伝わるだろうか。

 茶器にセットと小鉢を宗和膳にしつらえ客間に向かうと、オールマイトはわたしが床の間に設けた孟宗竹の葉と紫陽花の活け花を眺めていたところだった。

「相変わらず、典雅なご趣味ですね。それにその黒っぽい着物もお似合いだ」
「ありがとうございます」

 膳をオールマイトの前に置き、わたしもそのすぐ隣に座った。膳ではテーブル席でのそれより互いの距離が縮まる。オールマイトが軽く身じろぎしたのがわかった。

 大きな手の中に納まった涼やかな青色の津軽びいどろの盃に、深い緑色の茶を注いだ。ありがとうございます、と低い声でいらえがあり、わたしは自分の盃に茶を注ぐ。
 風の音を聞きながら二人ですごす、しっとりとした時間。


「オールマイトさん、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう。ご存知だったんですね」
「ええ。あなたは有名人ですもの」

 ヒーロー活動をしている時と違って、普段のオールマイトは落ち着いた低い声でゆっくりと話す。

「あれからもう十年になりますか」
「はい」
「毎年家にまで押しかけてしまい申し訳ありません。来年からは墓前に参らせていただこうかと思っています」
「そうですか……」

 やはりと思った。十年一区切りと人は言う。きっと今夜で最後になるのだろうと、なんとなくわかっていた。
 父がヒーローであったとはいえ、わたしは一般人だ。オールマイトは雲の上の人。おそらくこれきり会えなくなる。

 いつもなら父の話をするのに、今夜のオールマイトはあまり語らない。なぜだろう、どこか不自然な感じがする。
 
 ふと、オールマイトの小鉢が空になっていることに気がついた。お腹がすいていたのだろうか。もう少し重い物を出せばよかった。
 何か別のものをと慌てて立ち上がろうとして、あろうことか上前の裾を踏んでしまった。バランスをくずして前のめりに倒れそうになるところを、細いが力強い腕に抱きとめられる。
 恥ずかしい。和装初心者でもあるまいに。

「大丈夫ですか?」

 至近距離で微笑まれ、涙が毀れそうになった。わたしは彼の腕の中。青色のコランダムを思わせる瞳に、自分の姿が映っている。
 もう、言ってしまおうか。
 今夜は特別な一日だから。そしてきっと、これが最後の夜だから。

 庭の孟宗竹が、風に煽られざわめく音がきこえる。

「好きです……」

 オールマイトが細い身体をぎくりと硬直させ、わたしからそっと身体を離した。顔を片手で覆ってから、彼が大きくため息をつく。

「お茶はもう十分です。なまえさん」

 冷静な低い声に、はいと小さく答えて下を向いた。オールマイトの声が、その上に優しく降りてくる。

「今夜はもう遅い。ここでお暇して、また後日改めて伺います。このままここにいたら、私はあなたを自分のものにしてしまう。でもその前に、あなたの父君の仏前に挨拶をするのが筋だろうから」

 えっと息を飲んだわたしの手に、大きな手が重なった。傷だらけの、大きな温かい手。

「なまえさん。こんなに嬉しい誕生日は初めてだ」

 涙ぐむ私の手を優しく包みながら、オールマイトが私に告げた。

「私も、ずっとあなたが好きだった」

 孟宗竹が風に揺れるざわめきですら、優しい夜曲のようにきこえる。
 それは六月の、短い夜の物語。

2015.06.10

2015年オールマイト生誕祭に提出した小話

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