笑顔のひまわり

「ほんと、ばかじゃないの?」

 己に対して悪態をつきながら、わたしは自校の門をくぐった。
 ちらりと携帯を眺めると、時刻は七時二十五分。
 ますますまずい。我が校の最終下校時刻は午後七時半。それ以降は何があっても生徒は校舎内に入れず、中から出るのも容易ではなくなる。
 守衛さんか先生が持つ職員証兼カードキーがないと、門はあかない。
 それなのに製作途中のレポートを学校に忘れてくるとは、まったく何たる失態か。悪いことに、提出期限は明日だった。取りに行かないとそれはそれで面倒なことになるだろう。
 もう一度口の中でばかばかと自分を罵りながら、門から昇降口へとひた走る。

 国内最高峰のヒーロー科を有する我が国立雄英高校は、その特性上セキュリティが厳しいことで有名だった。学生証や通行許可IDを持たない者は、日中ですら門をくぐることはできない。二年前の春はこうしたセキュリティの強固さに驚き、なんという面倒な学校に来てしまったのかと後悔したものだ。

 焦りながら上履きに履き替え、校舎の中を必死で駆けた。誰もいない校舎は不気味だ。しんと不気味に静まりかえったこの雰囲気はたまらない。
 悪いことに、昨夜『学校の怪談特集』などというホラー番組を見たばかりだった。
 中でも走る骨格標本の話が怖かった。どこまでも続く廊下を追いかけてくる、ひょろ長い骸骨。かたかたと骨が鳴る音だけが響く映像は、実に不気味だった。

 恐怖と迫りくる最終下校時刻、その両方と戦いながら全力で階段を駆け上がったその時、大きくてかたい何かとぶつかった。

「ひゃぁぁっ」

 出会いがしらにぶつかった相手を確認した時、思わず大きな声が出た。昨夜の骨格標本と目の前の人の姿が重なったからだ。

 落ち着いてよく見ると、相手はとても背が高い男のひとだった。ただ骸骨と見まごうほどに痩せている。わたしとぶつかりしりもちをついたのであろうその人は、目が合うとにこりと笑った。
 その人の髪の色は鮮やかな金色で、笑顔はどこかひまわりの花を思わせた。

「大丈夫かい」

 大丈夫ですかと声をかけようとしたところ、痩せた人に先を越された。
 細い身体に似合わぬごつごつした大きな手が目の前に差し出され、思わず自分の手を重ねる。
 そっと手を引いて助け起こしてもらった時、なぜか身体が羽のように軽くなった気がした。
 中世の騎士が貴婦人をエスコートするようなスマートな起こしかた。こんなふうに扱われたのは初めてだ。
 背の高い人は落ち着いた低い声で笑う。

「廊下を走っちゃあぶないよ」
「ごめんなさい、そちらこそ大丈夫でしたか?」
「私は大丈夫だよ。ところでなんでそんなに急いでいたんだい」
「あの……忘れものをとりにきたんですけど、最終下校時刻が迫っているのと……その……怖くて……」
「もしかして君も夕べのあの番組観たの?」
「「廊下の骸骨!!」」

 思わぬところでハモってしまい、お互い顔を見合わせて笑ってしまった。

「私が一緒に行ってあげるから、ゆっくり行こう」
「え? でも」

 人気のない校舎内で、知らない男のひとと二人になる危険性が頭の中をよぎった。セキュリティの厳しい我が校に怪しい人は入れない。それでも警戒するにこしたことはないのだ。
 わたしの考えていることを見透かしたのか、大きな人がまた笑った。

「ああ、私は一応ここの教師だよ」

 ホラ、と背の高い人はカード状の証明書をわたしに見せた。名前の部分は指で隠れてよく見えなかったが、確かに我が校の教員証だ。
 ただわたしはこの先生に見覚えがない。これだけ大きな人なら目立つだろうに。
 絶対にわたしのいる普通科の先生ではないと思う。かといってヒーロー科の先生には見えなかった。サポート科の先生だろうか。
 骸骨を連想させる痩せかたや彫りの深い顔立ちは、悪の科学者というキャラづけが似合うような気がした。

「実は私もお化けの類がちょっと苦手なんだよね。だから門を出るまで一緒にいてくれると助かるな」

 ゆうべのあの番組は怖かったからねと、いたずらっぽく微笑まれてどきりとした。
 やたらと大きくてやたらと痩せた、この先生の見た目はとても怪しい。けれど不思議なことに、笑顔にはどこか安心感がある。
 こんなに大きなひともお化けが怖いのかと、愉快に思ったせいかもしれない。

 見た目が怪しい先生はお話のうまいひとだった。やや人見知り気味のわたしが、はじめての人とこんなに楽しく話せるなんて思わなかった。
 ひとりの時はあんなに怖かったのに、先生と一緒になってからの時間はあっという間だった。

「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」

 門のところで低い声で告げられた時、もうお別れかと残念に思った自分に驚いた。先生は何科の担当教員なのだろう。それを質問しようとした刹那、先生がついと上を見上げた。
 一呼吸おいて、さぁっという音と共に雨がぱらつきはじめる。

 困ったことに今日は傘を持っていない。
 どうしようかとため息をついたとき、目の前に黒い折り畳み傘が差し出された。

「傘がないんだろう? これ使いなさい」
「でも! 先生は?」
「私は大丈夫。ごく若いレディを濡れて帰すわけにはいかないんだよ」

 レディなんて言い回しをするひとに出会ったのは初めてだ。この先生は話だけじゃなく、人をドキドキさせるのがとてもうまい。
 躊躇しているわたしに傘を手渡して、背の高い先生はすごい速さで雨の中を走って行った。
 あんなに細いのにあんなに早く動けるなんて、反則だ。

***

 それから学内であの背の高い先生を探したが、なかなか会うことができなかった。傘を返すため職員室にも行ってみた。けれど、やはりそれらしき人はいない。

 奥の席にオールマイトが座っているのが見えた。オールマイトはかっこいい。
 見とれていたらヒーロー科のセメントスこと石山先生が来て、用がないなら教室に戻りなさいと注意されてしまった。
 オールマイト目当てに、用もないのに職員室に来たがる生徒が多いからだろう。

「あの、わたし普通科三年のみょうじなまえと言います。先日先生に傘をお借りしたのでお返ししたいのですが……その……先生のお名前がわからなくて……」
「名前がわからないのは困ったね。どんな先生かな? その先生の特徴は?」
「すごく背の高いひとで、すごく痩せてて、金色の髪と青い目をした彫りの深い顔立ちの先生です」
「ああ、わかった。知ってるよ。こちらから返しておくから安心しなさい」
「よろしくお願いします」

 石山先生に優しく微笑まれたので、あっさり引き下がって職員室を後にしたが、本当は自分でお礼を言いたかった。
 どうしてそう言わなかったのか。優しい石山先生なら、きっとわかってくれたはずなのに。
 悔やんだがもう遅かった。ついでに背の高い先生の名前を聞いておけばよかった。
 次から次へと後悔が湧いてくる。なぜこんなに悔やんでいるのか、自分でもよくわからない。
 ただわかっていることは、あの先生に会う口実がなくなってしまったことと、わたしがそれを残念に思っているという事だけだった。

***

 期末テストが終わり、試験休みがやってきた。結局、あの背の高い先生とはあえずじまいだ。
 あれだけ背が高いひとなのに、ぜんぜん姿を見かけない。
 同じくらいの身長の先生は、オールマイトくらいだ。
 オールマイトが実はよくできた着ぐるみで、後ろのファスナーを開けるとこのあいだの先生が出てきたらいいのになどと想像して、自分の考えのばかばかしさにあきれてしまった。
 どうやらわたしにとっては、オールマイトよりあの背の高い先生の方が、会いたい順位が上らしい。

 ヒーロー科の学生は、卒業したら大半がヒーロー事務所に所属する。サポート科の学生は、企業に就職する子と大学に進む子とに分かれる。そしてわたしたち普通科の生徒の大半は、大学へと進学する。
 学習したい生徒のために、夏休みも学校の図書室は八時から五時まで解放されていた。図書室は冷房が効いていて快適だ。朝一番の図書館はまったくひとけがなかった。
 もう少ししたら受験を控えた普通科やサポート科の学生がちらほら来始めるのかもしれないが、現在の図書館独り占め状態に、なんだかわくわくする。

 その時、背後でかたりと音がした。
 司書の先生と自分しかいないと勝手に思い込んでいたため、驚いて声を上げそうになってしまった。
 おそるおそる音のした方を振り返ると、高い書棚の向こうでひまわりを思わせる金色の頭髪が揺れているのが見えた。
 ずん、という音とともに心臓が跳ね上がった。ドキドキなどという生易しいものではない。本当に会いたかったひとと会えた時、人間の心臓はこんなにも激しく鳴るものなのか。

 あの身長にあの髪の色。間違いない、あの先生だ。
 書棚の上から見える金色の髪をちらちら見ながら、どう話しかけようかと心が弾む。

 先生は本を借りに来たようだった。
 司書の先生と何やら話をし、何冊かの書籍を手に図書室を出ていく。
 その長身をわたしは思わず追いかけた。先生は背が高い分足も長い。一歩の長さが違うため、徐々に距離がひらいてゆく。
 せっかく会えたのに、このまま会えなくなるのはいやだと思った。

「先生!」

 必死で呼ぶと、先生は立ち止まってこちらを振り返った。
 一瞬だけ目をぱちくりと見開いた先生は、少し驚いているようだったが、やがて満面の笑みをかえしてくれた。

「君か。あの後風邪をひいたりしなかったかい?」
「大丈夫です。先生こそ」
「私は大丈夫だよ」

 あれからずいぶん経つと言うのに、覚えていてくれたことが嬉しかった。
 渋めの低い声がやっぱり素敵だなと思う。
 やや小走りで隣に行くと、先生はわたしの歩調に合わせてゆっくり歩いてくれた。

「君は三年生かい?」
「はい、普通科三年のみょうじなまえといいます」
「進路は決まった?」
「……一応進学を考えています」

 本当はヒーローになりたかった。地元では個性も成績も秀でていたから、ぜったいにヒーローになれると思っていた。
 だが、世の中は、ヒーローの世界はそんなに甘いものではなかった。
 わたしは雄英ヒーロー科の受験に落ち、普通科に入学した。
 上には上がいたのだ。雄英高校では、わたしの個性など全くたいしたものではなかった。行事のたびに、それを思い知らされた。体育祭はその最たるものだ。
 結局、「秀才」から「普通」に成り下がってしまったわたしは、ヒーローになることを諦めた。
 しかし夢を諦めた後も人生は続く。けれどわたしはなにを目指していいのかわからない。
 一口に大学と言っても、学部も学科もいろいろあるのだ。ざっくりと文系を選んだものの、高校三年の夏のこの時期にきても、わたしは何の道に進むのかまだはっきりとは決めかねていた。
 廊下を歩きながらそんな話をしていると先生は軽く笑んで答えてくれた。

「そうか、だったらやりたいことを探すために進学するという考え方もあるよ。大学に入ってから転科することもできるしね」
「はい」
「みょうじくん、私は職員室より仮眠室にいることが多いんだ。夏休み中もここにいるから、もし悩みがあるなら相談しにおいで」

 職員室より仮眠室にいることが多い教師なんて、聞いたことがない、でも目の前の先生が嘘をつくとは思えなかった。不思議な話だが、きっと本当なのだろう。

 夏休みに入った。
 わたしはお弁当を持参して午前中を図書室ですごし、お昼時に仮眠室を覗いて午後からまた図書室で勉強するのが日課になった。
 先生はいたりいなかったりだったが、運が良ければ一緒にお弁当を食べられることもあった。

 先生はお話がうまいだけじゃなくて、聞き上手だ。先生の低い声で尋ねられるといろいろ話したくなってしまう。そして話すうちに自分の考えが整理されていく。とても不思議だ。
 そしてなにより、わたしは先生といると楽しいのだ。

 仮眠室からは校庭のひまわりがよく見える。
 ひょろりとしているのにどこか太陽を思わせる力強いその姿は、先生とよく似ていると思った。
 わたしが仮眠室の先生の所に入り浸っていることは、誰も知らない。友達にも内緒にしている。先生とのことは、あまり知られたくない気がしたから。
 たぶん私は、先生のことが好きなのだと思う。

***

「先生、そのお弁当は誰が作っているんですか」

 ある日思い切って聞いてみた。
 先生のお弁当の包みは可愛いうさぎ柄。中身も色とりどりでとても美味しそう。綺麗に盛り付けられているから、奥さんが作ったのかもしれない。そう思った時、わたしの胸がちくりと痛んだ。

「自分で作っているよ。栄養のバランスは大事だからね」
「先生はお料理上手なんですね。奥さんとか彼女さんがうらやましいな」
「そんなのいないよ」

 冗談めかして入れた探りの言葉に、先生はきちんと返答してくれた。やっぱりこのひとは優しい。

 先生が独身だとわかった帰り道、校庭に寄って花壇の中に咲くひまわりを見上げた。
 空に向かって元気よく伸びている大きな花。
 夏の強い日差しがじりじりとわたしの肌を焼く。あまりの暑さにめまいがした。胸が熱くて、痛くて、苦しい。
 そうして気づく、わたしを焦がしているのは太陽光ではなく、太陽に似た、先生の存在なのだと。

 ああ、わたしはやっぱり先生のことがこんなに好きなんだ。
 そう思うと、涙がじわりとあふれてきた。
 今まで好きになった子はいた。高校生になってからは、付き合った男の子もいる。
 けれどその人のことを想っただけで涙が出ることがあるなんて。先生に恋をして、わたしは初めて知ったのだった。

 わたしはじりじりとした夏の日差しを一身に浴びながらひまわりを見上げる。
 ひまわりは背が高い。先生と同じくらいに。

***

 今年の夏は、いつもの年より一日が過ぎるのが早い。
 きっと先生に恋をしたせいだ。
 好きな人と過ごす時間はこんなにも早く過ぎると言うことも、先生に恋をして知ったことだ。

 仮眠室で、先生はいつも冷たい麦茶を入れてくれる。普通の大きさのコップは、先生が持つと小さく見える。そんな些細なことのひとつひとつも、忘れずに覚えていたい。
 恋をすると、女の子は記憶媒体のようになる。好きな人のしぐさや表情、すべてを自分の心の中に記録して、一人になってから、何度も何度も再生するのだ。

 一年生が林間合宿に向かう前日であるこの日、わたしはいつものようにお弁当を広げながら、やっと決まった進路について、先生に報告した。

「わたし、ヒーローにはなれなかったんですけど、その道を目指す子供たちのサポートをしたいと思うんです」
「サポート?」
「はい。わたし、先生と同じ教師になりたいんです。教育学部か、教員免状をとれる学部に進もうと思っています」
「いいじゃないか。じゃあ卒業後は雄英に戻ってきたらいい」
「国立校の採用試験をパスするには、ものすごく勉強をしなくてはいけませんね」
「君なら大丈夫だよ」

 何の根拠もない一言だ。でもこの時、すごく励まされた気がした。
 そうか、四年経って雄英に戻ってきたら、このひとと同じ立場になれるんだ。

「そうしたら私とみょうじくんは同僚になるね」

 四年後、また会えるだろうか。会えたらいい。
 でも四年だ……とても長い。私が大人になるその時まで、先生はひとり身でいてくれるだろうか。

 今日はいつになく暑い、仮眠室は冷房が効いているはずなのに、頭がくらくらする。それが暑さのせいなのか、先生への想いのせいなのかわからない。
 けれど、思い切って言ってみようか。新学期が始まったら、こんなふうに気軽に会えなくなるんだもの。
 好きだなんて伝えたら、先生は困るだけだろう。だからできるだけ重たくならないように。できるだけ、先生の負担にならないように。

「先生、四年後に会いに来たら、わたしを……生徒としてじゃなく、一人の女性としてみてくれますか?」
「エッ?」

 先生は派手に吐血しながら、座っていたソファごとひっくり返った。
 そんなに驚かなくてもいいのに。
 女生徒が男性である先生の元を頻繁に訪れる理由を、今まで考えたことはなかったのだろうか。わたしが先生に気があるとは、思わなかったのだろうか。それはわたしがやっぱり子どもだからなのか。
 わたしが先生に、女の子ではなく女のひととして見てもらえるのには、果たして何年の月日が必要なのだろう。

 先生は血を拭きながら、ゆっくりと起き上った。
 細い腕のどこにそんな力があるのだろうと驚くくらい軽々とソファを元に戻してから、流れるような所作でそこに座った。
 しばしの間、先生は無言だった。明後日の方向を見ながら頭をぽりぽりかいている。いつもまっすぐこちらを見つめてくる先生にしては、珍しいと思った。
 少しの間考え込むようなしぐさをして、やがて先生はわたしの目を見ながら口を開いた。

「四年も待たなくていいんじゃない?」
「え?」

 サファイアみたいな青い瞳に、わたしの姿が映っていた。
 窓の外でアブラゼミが鳴いている。その声がひどくうるさく感じる。こういう時は自分の心臓の音しか聞こえないものだと思っていたのに。

「高校を卒業したら、会いにおいで。そうしたら教師と生徒とではなく、その……一個人として話をしよう」

 その言葉を聞いた瞬間、さして明るくないはずのこの部屋が、太陽光の下にいるよりもずっと明るくなったように思えた。

 校庭に、黄色い大きな花が咲いている。
 空に向かってまっすぐ伸びるその花は、先生とよく似た花だった。

2015.6.29
- 8 -
prev / next

戻る
月とうさぎ