ショッキングな内容のお話です。大丈夫な方だけお進みください
またこのお話は名前変換が名字だけになります
「もう少し一緒にいられないかな?」
低音でそう囁きながら、精悍な顔立ちの偉丈夫がみょうじの額に唇を落とした。
巨大なベッドに横たわる二人は裸のままだ。男の盛り上がった胸筋にそっと口づけみょうじはただ微笑んだ。
それはまさに、都会の高級マンションの一室で繰り広げられた昼下がりの情事のあと。
いいだろう?と、男―オールマイト―がもう一度問うてきた。
「……ごめんなさい……」
「君が家庭を大切にしているのはわかる。それも含めて、きちんと考えさせてくれないか」
「ありがとう、でもその気持ちだけで充分よ」
「私に任せてくれれば悪いようにはしない、絶対にだ」
「……だめよ……ナンバーワンヒーローをスキャンダルに巻き込むわけにはいかないわ」
「そんなことにはならないと思うし、もしそうなっても私は一向に構わないよ」
嘘偽りのない言葉だろうとみょうじは思う。
このひとは少しでも多くの人を救うために、少しでも多くの人の笑顔を守るためにヒーローであり続けている。彼がナンバーワンであり続けるのは、自らのポリシーに従った行動の結果に過ぎない。
オールマイトは人気取りのためにヒーローをしているわけではない。それはよくわかっている。
けれどやはり、自分の事情にオールマイトを巻きこんではならない。
ナチュラルボーンヒーローは、誰かのものになどなってはいけない。
晴れ渡った空の色をした瞳を見つめて、みょうじは申し訳なさげに口唇をひらく。
「ごめんなさい」
オールマイトが悲しげに眼を伏せる。
結局のところ、オールマイトとみょうじの関係は、彼の忍耐によって成り立っていた。
それがわかっていてこんな関係を続けている。
進むことができないくせに切れることもできない、女の狡さとあさましさ。
ナンバーワンヒーローが自分のような女に懸想してくれることはとても嬉しい。
優しく誠実な彼に対して、本当に申し訳ないことをしているとも思う。
みょうじとて、オールマイトのことを心の底から愛していた。
けれどみょうじにとって、もっとも大切なのはやはり家庭だった。
そして、オールマイトはそれに気づいている。気づいていてなお何も言わない。彼はそういう人だった。
「喉が渇いたな」
重くなった空気をかき消すように、オールマイトが笑った。
本当に優しい人だと、みょうじは心苦しさに目を逸らす。本来ならばこの空気をかえるのは、彼ではなく己のほうであるべきなのにと。
「コーヒーでも飲むかい?」
「ええ。ありがとう」
オールマイトはコーヒー党だ。
アメリカンタイプの浅煎りの豆……いわゆるシナモンローストを、アウトドアでするようにパーコレーターで淹れるのが最近の彼のお好みだった。
みょうじはあまりコーヒーが好きではないが、オールマイトの淹れてくれるコーヒーだけは好きだ。
味の良しあしはよくわからないが、なんだかとても癒される。
素早く服を着てキッチンに立った情人の逞しい後姿を眺めてから、みょうじも衣服を身につける。
背中に生える蝶の羽を服の穴に通し、一度大きく広げてみた。すぐに羽が出せることを確認して、また小さく折りたたむ。
そうしておいて、みょうじは深く息をついた。
みょうじには家庭がある。
だからオールマイトと二人で過ごせる時間は平日の昼間……それも昼休みの短い時間帯のみだった。
もちろん互いにプロヒーローだ。行為の最中であろうとも、要請があればすぐに駆けつける。
互いの都合がつく昼休みに、事務所から近いオールマイトのマンションで繰り広げられる、慌ただしい情事。
本当に自分はオールマイトの優しさに甘えているとみょうじは思う。私的な関係だけでなく、公人としてもそれは同様で。
みょうじはほとんど残業をしない。五時きっかりに事務所を出る。それ以降はどうしても自分でなければならない場合を除いて、出動要請には応じない。
事務所代表であるオールマイトが、それを許しているからだ。
五時までヒーローとみょうじを揶揄する人も、少なくはなかった。
「はい」
「ありがとう」
目の前に差し出されたコーヒーとオールマイトの張りのある声に、みょうじは我に返った。
丁寧に淹れられた浅煎りのコーヒー。
みょうじも、このコーヒーだけはブラックで飲む。
浅煎りのコーヒーは酸味が強いが苦みは少ない。砂糖やミルクを入れないで、そのまま飲むのに向いている。
「おいしいわ」
「それは良かった」
「ところで俊典さん」
「なんだい?」
本名を呼ばれ、オールマイトが嬉しげに笑んだ。
事務所代表と所属ヒーローの一人という立場もあって、公人としての二人は、互いをヒーローネームで呼び合う。みょうじは彼をオールマイトと、彼はみょうじをバイオレットと。
けれど二人でいるときだけは、互いを互いの本名、ファーストネームで呼ぶようにしていた。
殆どその名で呼ばれることがないオールマイトは、二人の時に本名を呼ぶと、とても喜ぶ。
「今週末は一晩じゅう一緒にいられるかもしれないわ」
「本当かい?」
「ええ」
オールマイトがスカイブルーの瞳を輝かせた。
本当にかわいいひと、とみょうじは思う。
こんなに身体が大きくて、こんなに筋骨隆々なのに、かわいいのだからタチが悪い。
そんな顔をされたら、その優しさにすがりたくなってしまうではないか。
夏の蜃気楼のようなうたかたの恋。そんなつもりで始めた関係であったのに。
***
真夏の太陽がじりじりとみょうじの肌を焼いていく。
この街の蒸し暑さは異常だ。夕方だというのに、今日はちっとも涼しくなる気配がない。
あまりの暑さに光の屈折が起き、道路のうえにはあるはずのない水たまりが見えている。いわゆる逃げ水現象だ。
額から流れ落ちる汗をぬぐって、みょうじはひとり笑みを浮かべる。
昨夜は以前からの約束通り、オールマイトと共に過ごした。
普通の恋人同士のように映画を観て、夕食を共にし、お酒を飲んで、ベッドに入って一緒に眠った。
オールマイトはヒーローとしても一流だが、情人としてもすばらしい。あとにもさきにも、あれほど自分を満足させてくれる男は現れないだろう。
情事の余韻を残す身体を引きずるようにして、みょうじは裏町の路地に足を踏み入れた。
治安がよいとは言い難い通りだ。ヴィランも多く潜伏していると聞く。
この都会において、ここは一般女性の独り歩きが危険だと言われる数少ない道のひとつだった。
昨夜の情熱の疲れを残す身体でここを通ることは、実を言えば避けたかった。
一般人相手なら負けることなどないと思うが、数人のヴィランにでも出くわしたりしたらやっかいだ。
「でも、ここを通るのが一番早いのよね……」
腕時計をちらりと眺め、みょうじは独りごちた。
タイムリミットは五時半。急がないと間に合わない。
だが、それから数分後、みょうじはこの路地に入り込んだことを心の底から悔いることとなる。
***
いかにも怪しげな男が三人、数メートル先にある袋小路のどんづまりに立っている。
胸元に派手なタトゥーを入れた大柄な男が一人。パンクシンガーのように髪を逆立てた銀髪の男が一人。そして黒髪をきっちりとオールバックにした小柄な男が一人。
三人の足元に無造作に置かれているのは、馬鹿みたいな大きさの白い袋だ。
中身がもぞもぞと動いている。入っているのは生きた何かだ。
こちらが向こうの異様さに気づいたように、向こうも「気づかれた」ことを察したようすだった。
このまま何も見なかったことにして、当初の予定通り手前の路地を右に曲がれば一人逃げるのはおそらくたやすい。
だが……「五時までの女」と揶揄されてはいても、みょうじはやはりヒーローだった。
「あなたたち―」
しかし、かけた言葉は途中で遮られた。
足元の地面がいきなり爆ぜたのだ。砂塵が巻き上がり、砕けたアスファルトが飛び散る。爆熱に吹き上げられた小石がみょうじの頬をかすり、肉を裂いた。
コールタールの溶ける嫌なにおいが西日の差す袋小路に流れてゆく。
爆発系の個性だろう。
炎の伝播速度が音速をこえる『爆轟』ほどの威力はない。おそらく男の個性の程度は衝撃波を伴わない熱膨張……『爆燃』であろうと推察された。
銀髪の男はそのままみょうじに向かって突っ込んでくる。
みょうじは折りたたんでいた蝶の羽を広げ、力強く羽ばたいた。
途端、銀髪の男が地面につっぷすように倒れこんだ。残りの二人も地面に膝をついている。
砂埃が立つ中、みょうじは白い袋に向かって走った。
みょうじの個性は毒の粉だ。個性を発動させると、背中の羽をはばたかせるたびに毒を含んだ鱗粉が舞う。
毒は神経系のもので、相手を麻痺させられるものだ。といっても、動きを一時的に封じる程度のことしかできない。
よく似た個性を持つヒーローは他にもいる。最近出てきた後輩の美人ヒーローがその最たるものだ。しかも実力的には彼女のほうがずいぶん上だった。正直なところ、ヒーローとしてのみょうじはB級程度だ。
まともに毒を吸い込んだ銀髪の男はしばらく動けないだろうが、残りの二人はすぐに動けるようになるだろう。
みょうじは素早く袋の口を開けた。
中から出てきたのは小学校低学年くらいの男の子だった。猿轡をされ、目に涙を浮かべている。
慌てて縄をほどき、子供を抱きかかえて男たちから距離を取った。
子供連れでは満足に戦えない。子供を抱えてこの場から無事撤退できる自信もない。
早く応援を呼ばなくては。
端末を取り出し、応援要請ボタンを押したその時だった。
みょうじの手元で小さな旋風が巻き起こった。思わず端末を取り落したそこに、また旋風が吹き荒れる。みょうじの命綱である端末を吹き飛ばしながら。
旋風を放ったのは黒髪オールバックの一番小柄な男だった。よく見ると俳優のような端正な顔立ちをしている。切れ長の眼に通った鼻筋、酷薄そうな薄い唇。
氷のような美貌が逆に、男にある種の凄みのようなものを与えていた。
おそらく、このグループのリーダーはもっとも小柄なこの男だろう。
そしてきっとこの小男の個性は風だ。
(最悪だ)
みょうじにとって最も相性が悪い相手、それが風使いだ。
撒いた鱗粉が拡散されて周囲に飛び散ってしまう。
連れている子供にかかったりしたら、大変なことになるだろう。
そのうえ、もう一人の男もずるずると動きはじめていた。こちらはたぶんブースター系だろう。両腕の筋肉があり得ないくらいに肥大している。
いずれにせよ、あまり歓迎できる状態でないことだけは確かだった。
「あぶない!」
背後の子供が叫んだのと、左腕に痛みが走ったのが同時だった。
先ほどの倍くらいの大きさの旋風が、みょうじの周囲をぐるぐると回る。
もうもうと砂埃が舞って、みょうじの視界がグレーに染まった。
みょうじの腕を裂いたのは旋風の中に潜む真空の刃だ。「かまいたち」と人は呼ぶ。
覚悟を決めて、みょうじは男たちを睨みつけた。
幸いにして応援要請だけはできた。
会話をせずに回線が切られてしまったが、送った人物と居場所の記録だけは確実にセンターに届いているはずだ。
必ず、応援は来る。
小柄な男が、みょうじとその背後の男の子を眺めながら告げた。まるで死刑宣告のような冷たい響きだった。
「見られた以上、帰してやるわけにはいかないんだよ。お嬢さん」
「ここ最近、優れた個性をもった子供の誘拐事件が多発してる……あんたたちのしわざね」
小柄な男は答えるかわりに、片方の口角を引きつらせるようにして笑った。
端正な顔立ちの男であったが、それだけに奇妙な迫力がある。
この男はまずい。みょうじは反射的にそう思った。
「下がって!」
背後の子供の叫びに遅れることコンマ数秒、太腿のあたりに熱いなにかを感じて視線を落とした。
ナイロンのパンツの太腿のあたりがぱっくりと避けている。
腿にゆとりのあるパンツを穿いていたのが幸いした。
それにしても危ないところだった、とみょうじは思った。
声をかけてもらわなければ、足をやられていただろう。
先ほども思ったが、この子は自分に見えない物がみえているようだ。いい目をしている。なるほどヴィランが欲しがるわけだ。
「なあ兄貴、けっこういい女だぜ。殺るまえに、連れて帰って楽しませてもらおうや」
露わになったみょうじの太腿に舐めまわすような視線を送り、大柄な男が顔を笑みの形にゆがませる。
下衆め、とみょうじは内心でそう小さくはき捨て、そして思った。だが、それこそ好都合だ。そのつもりでいてくれれば、ますます時間が稼げるというものだと。
「駄目だ」
風使いが冷たく言い放った。
「こいつはここで殺しておく」
この男はおそらく何人もの人間を手にかけている……みょうじはそう感じとった。
そういうヴィランに共通する狂気じみたなにかを、男はたしかに所有している。
先ほどの攻撃も、鼠蹊部から膝上部に走る大腿動脈を狙ったものだろう。
男の持つ冷たい狂気に、背筋が凍る思いがした。
自分だけなら、逃げられるかもしれない。
いったんこの場を離れても、応援さえくればきっとこの子は助かるだろう。
そう遠くない場所に、オールマイトがいるのだ。
ヴィランを追跡し、倒し、確保し、人質を救出することなど、彼ならたやすい。
それがこの場を乗り切る最善の方法だ。だが―。
「!!」
戦闘とは別のことに思考を走らせたみょうじのうえに、旋風が右から左から容赦なく襲いかかる。ガードをした腕が、肘が、切り裂かれていく。
転瞬、今までとは比較にならない痛みがみょうじを襲った。右側の羽が根元から断ち切られたのだ。
ぱさりという音を立て、切られた羽がアスファルトに落ちる。
吐き気がするほどの痛みを感じながら、みょうじはすみれ色の瞳をヴィランに向けた。
この子をおいて逃げたりしない、絶対に。
それをすればこの子の心には、きっと一生消えない傷が残る。
救けてくれるはずのヒーローが、自分を置いて逃げたのだと。
たとえ自分がどうなろうとも、ここで引いてはならない。
応援は必ずくる。
それまでこの場を持ちこたえられれば、それでいい。
ぶつり。
耳元で嫌な音がした。グレーだった眼前が深紅に染まる。
背後から、子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。
急に自身の重みを支えきれなくなって、がくりとその場に膝をついた。
ぬるぬるとした何かが、膝に触れる。
足元にできた深紅の水たまりと、首筋から噴水のように溢れ出る生暖かいなにか。
そっと首筋に手をやると、ぬるりとした感触。
やられたのは、おそらく頸動脈。
膝だけではなく左手を地につけながら、みょうじは懸命に状況を把握しようと努力した。
不思議と痛みは感じなかった。だが思考がどうにも働いてくれない。
頭に浮かんでくるのは、全く関係のない事ばかりで。
だらしなく床に寝ころんだまま、笹を食むパンダ。
美しい蓮の花で覆われた池。
髪をおろしてサングラスをかけたオールマイトは、意外にも周りに気づかれることもなく。
三人で笑いながら歩いた、幸せに満ちた時間。
ああ、どうしていま、こんなことを思い出すのだろう。
みょうじの中でかちりと音がし、流れる映像がまた変わった。
「毎朝、私だけのために紅茶を淹れてくれないか」
そう囁いたのは、俊典の心地よい低音だった。
あれは何度目のプロポーズだったろう。
彼が結婚を申し込み、みょうじがそれを断る。いつしかそれが習慣のようになっていた。
あの日みょうじは奇妙な約束をした。紅茶にまつわる約束だ。
そうすれば紅茶を見るたびに、彼はきっと、自分のことを思い出す。
下卑た笑い声に我に返った。景色がぐるぐると回って見える。
ああそうだ、わたしはヴィランと対峙していたのだっけ、とみょうじは心の中で小さくつぶやく。
笑っているのは大柄な方の男だった。倒したと油断しているのだろう。たしかにみょうじの傷は致命傷だった。
舐められたものだ。窮地に陥れば、鼠だって猫を噛むというのに。
「眼を閉じて、息を止めていなさい」
男の子にだけ聞こえるような小さな声でそう告げると、みょうじは残された力を振り絞って左の羽を震わせ、毒の鱗粉をまき散らした。
本当に気が緩んでいたのか、二人とも多少なりとも粉を吸い込んだようだった。大男はその場で地面に手をつき、小男のほうは額を抑えたまま動かない。
もちろんこんなもので敵を倒せるとは思っていない。けれどわずかでも時間を稼ぎたかった。ほんの少しだけでいい、足止めができれば。
せめて、この命があるうちに。
怯えた顔の男の子に、大丈夫よと笑みを返した。
笑顔は人を安心させる、それを教えてくれたのはあのひとだった。
助けに来たのがわたしではなくあの人であったなら、こんなに怖い思いはさせずに済んだだろうに。この子には悪いことをした。トラウマにならなければいいのだが。
男の子はみょうじのたった一人の家族と、同じくらいの年ごろだ。
背後の子供の怯えた顔と、愛しい娘の姿がぼんやりと重なる。
娘……みょうじのたった一人の大切な家族。
わたしの小さなしあわせ、みょうじは娘をそう呼んでいた。
その小さなしあわせを、たったひとりこの世に置いていかねばならないこと、それだけが心残りでならない。
じわじわと、視界が少しずつ狭まっていく。闇に侵食されるように、周囲の景色が黒一色に飲み込まれていく。
狭まる視界の端に、ヴィランたちが動き始めるようすがうつった。
その時、諦めかけたみょうじの頭上で、聞き覚えのある低音が鳴り渡った。
「もう大丈夫! 私が来た!!」
声の方向を確認するまでもない。
それは存在そのものが犯罪の抑止力になると謳われた、平和の象徴。
あまりの嬉しさに、涙が毀れた。
救けられる立場になって初めてわかった。
己の愛した男は、これほどまでに輝きにあふれる希望の光であったのだと。
よかった。これで男の子はきっと助かる。
「バイオレット!!」
血まみれで膝をついているみょうじの姿を確認し、オールマイトの顔色が変わった。
その後はすべて一瞬だった。風神もかくやというスピードと、鬼神もかくやというパワー。
二人のヴィランを瞬時に倒し、全員を拘束したオールマイトがみょうじに駆け寄る。
オールマイトは自らのヒーロースーツが血で汚れることを厭いもせず、みょうじの身体を抱き上げる。みょうじの細い首筋にはしる傷跡を確認した青い瞳が、大きく揺れた。
「×××!」
オールマイトに名を呼ばれ、みょうじはゆるゆると目を開けた。
そこに見えたのは、絶望に精悍な顔をゆがませている愛しい男の姿。
本当に、自分は最後の最後まで彼を苦しめている。
ヒーローの時にその名を呼ぶのはルール違反よと軽口をたたいてあげたかったが、それは声にならなかった。
ごめんなさい、俊典さん。ごめんなさい、わたしの小さな可愛い娘。
薄れゆくみょうじの意識の中で、また新たな映像が唐突に浮かぶ。
蓮池のほとりで、みょうじとよく似た若い娘を慈しむように見つめている長身の男。白いワンピースを着たその娘もまた、幸せそうに笑みながら男を見つめている。
金髪碧眼のその男はずいぶんと痩せているけれど、みょうじが見まごうはずもない。あれはオールマイトだ。
そしてあの娘はきっと――。
闇が、じわじわとその領域を増やしていく。
白いワンピースの娘も長身痩躯の男の姿も、徐々に闇の中へと消えていく。
みょうじの前の景色が、すべて闇色に塗りつぶされた。
一つの命が失われたその時、路地裏に差し込む陽光が、周囲を哀しいまでのオレンジ色に染めていた。
***
そして十年の月日が流れた。
オールマイトは布張りのソファに腰掛けながら、窓の外に咲く八重桜を眺めていた。
ソメイヨシノよりもやや濃いピンク色の花は、丸くふんわりとしていてかわいい。
その時、窓の外で一陣の風が吹いた。オールマイトがぴくりと眉を動かして空を見る。
〜わたしの小さなしあわせをどうか守って〜
亡くした恋人の声が、聞こえたような気がした。
まさかなと頭を軽く振って、長身痩躯の男は小さくため息をつく。
その時、かちゃりという音と共に、応接室の扉があいた。
窓の外で八重桜の花がゆらゆらと揺れる、良く晴れた春の日のことだった。
これは別のお話の、始まりの物語。
2015.8.8
【注】本作は原作8巻の内容が本誌で描かれる以前に作成したお話です。
原作8巻の「(オールマイトが)現場に来て救えなかった人間は一人もいない」という表現を見た時に書き直すことも考えたのですが、本作の場合、オールマイトが到着した時点で夢主はすでに致命傷を負い虫の息でした。
ですので、オールマイトは対象者を「救けられなかった」のではなく「到着が間に合わなかった」と解釈していただけると助かります。
「カレイドスコープ」0話
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