今宵あなたと
シェリー酒を

「みょうじくん、待ってくれ」

 終業とほぼ同時に退社しようとエレベーターに向かったわたしを、心地よい低音が呼びとめた。
 声をかけてきたのはこの事務所の代表で我が国が誇る英雄、オールマイトだ。
 かつてヒーローをしていたわたしは、怪我がもとで引退し、オールマイトの事務所で事務員として働いている。

 わたしは少し慌てて周囲を見回した。幸いにしてひとけはない。
 誰かにこんなところを見られでもしたら、面倒な事になるのはわかりきっている。
 本当にこういうことはやめてもらいたいものだ。

「みょうじくん。その……よかったら、今夜時間をもらえないだろうか」
「すみません。子供たちが待っているので」
「三十分……三十分でいいんだ」
「無理です」

 わたしはオールマイトに背を向けて歩き出す。
 それにしても不思議でならない。
 ルックスはそう悪くないと思ってはいるけれど、わたしは絶世の美女というほどでもなく、男性を虜にするような個性の持ち主でもなく、そのうえ若くもない。
 なんの面白味もないアラサーのシングルマザーに、金髪碧眼の英雄様はどうしてこうも執着するのだろうか。

「じゃあ、明日! 明日はどうだろうか?」

 めげない声に追いかけられて、わたしは足を止めた。

「……では明日。それでも三十分だけですよ」
「うん、ありがとう」

 我が国が誇る英雄は嬉しそうな笑顔をわたしに向けた。

***

 わたしは職場からほど近い、地下にあるバーでオールマイトと飲んでいた。
 オールマイトに連れて来られるのはいつもこの店だ。マスターは無口で腕のいいバーテンダ―。暗すぎず、明るすぎない、大人の雰囲気の静かなお店。

「君は何を頼む? ポートワインなんかどう?」

 ポートワインの意味は「愛の告白」と「今夜は帰さない」だ。
 冗談じゃない。わたしがこのひとに許した時間は三十分だけだ。
 家では二人の小学生がわたしの帰りを待っている。なにがあっても六時半には家に帰りたい。

「では、ブルームーンを」

 ブルームーンの酒言葉は、できない相談。
 女性とサシ飲みしてこの酒を頼まれたら、その女は諦めろと言われる、拒絶用として有名なカクテルだ。
 広い肩を落として、がっくりとうなだれる英雄様は正直かわいい。
 このひとの人気がいつまでも衰えないのは、強さや正しさもさることながら、このかわいさに起因しているのではないかとわたしは密かに思っている。

 それにしてもこの「三十分だけ」からの「ポートワイン」と「ブルームーン」までの流れを、今まで何回繰り返してきただろう。
 お目当ての女優を六年間口説き続けて、やっと結婚にこぎつけた俳優の話ではないけれど、わたしは何度もオールマイトを振ってきたというのに。

 わたしの前にブルームーンが、彼の前にストレートのバーボンが音もなく置かれる。
 がっくりと肩を落としていたオールマイトがぐいと顔を上げた。そこに浮かぶのは自信ありげな笑み。
 このひとは、落ち込みやすいが立ち直るのも早い。

「知っているかい? ブルームーンにはもう一つ意味があるんだ」
「なんです?」
「完全なる愛」
「パルフェ・タムールですか」

 パルフェ・タムールはフランス語で「完璧・完全な愛」という意味だ。
 その名を冠したすみれのリキュールを使うことがあるため、オールマイトの言うとおり、ブルームーンは「できない相談」と「完全なる愛」というまったく正反対の酒言葉を持つ。
 だがすみれのリキュールは他にもあるし、一般的にブルームーンは「できない相談」という意味の方が有名だ。
 どこまでめげないひとなんだろうと、わたしは鼻白んだ。
 そんなことにはお構いなしにオールマイトは続ける。

「私には真心の限り君に尽くす覚悟がある。お子さんたちのこともけっして悪いようにはしない。だから私とのことを真剣に考えてくれないか?」
「それは無理です」

 きっぱり答えてかちりとグラスを合わせ、ブルームーンを味わった。
 すみれの香りがするこのお酒は、口に含むと柑橘系の味が広がる。レシピはすみれのリキュールとジン、そしてレモンジュース。
 透明感のある薄紫色が美しい、おいしいお酒だ。

「まったく君は手厳しいね」
「褒め言葉と受け取っておきます」

 苦い笑顔でバーボンをあおるオールマイトに微笑んで、わたしは空になったカクテルグラスをテーブルに置いた。
 ブルームーンはショートカクテル。飲み終えるのにそう時間はかからない。たいてい一杯飲み終わる頃に、約束の三十分が訪れる。
 ちなみにこの三十分、社を出た瞬間からの計算だ。

「それでは、代表。ごちそうさまでした」

 わたしはヒールのかかとを鳴らして、オールマイトから立ち去る。
 背後ではがっちりした体を高そうなスーツで包んだ大男が、肩を落としていることだろう。
 いつまでもこんなシングルマザーに執着しないで、自分に相応しい美女のところにでも行ったらいいのに。



 そしてそれから数日後、オールマイトが姿を消した。



 事務所側はマスコミに対して、「オールマイトは休暇中」であると発表したが、当の事務所の人間は誰もそんなことを信じてはいなかった。
 あの代表が事前に何の連絡もなく、いきなり長期休暇など取るわけがない。今までそんな前例はない。何よりオールマイトが長期休暇を取ったことなどあっただろうか。
 きっとなにかよくないことが起きている。
 皆、心の中でそう思いながらも、誰もそれを口にしようとはしなかった。
 誰もが信じていたからだ。オールマイトは必ず元気な姿を見せてくれると。

 そのまま二週間、三週間と時間だけが過ぎ、ある日突然、オールマイトが復帰した。姿を消したその時と同じように唐突に。以前と変わらぬ笑顔のままで。
 否、微妙は変化は確かにあった。少なくともわたしはそれに気づいた。

「少しお痩せになりましたか? お顔の色もすぐれませんし……」
「ああ、大事ないよ」

 もともと浅黒い肌が、少しくすんで見えたのだ。
 気のせいかもしれないが、大柄なその身体が一回り小さくなったように思え、ますます不安をかりたてられた。

 そしてそれを境に、オールマイトから誘われることはなくなった。

 英雄様はさえないシングルマザーを口説くのに見切りをつけ、己に相応しい美女の元へと去ったのだろうとわたしは自分に言いきかせた。
 それでいい。そのほうがお互いの為なのだから。

***

 久しぶりの残業を終え、わたしはこの後どうしようかと思案していた。
 明後日の夕方まで、子供たちはいない。学校の移動教室で、長野に行っている。
 誰もいない一人の家にこのまま帰るのは、なんとなくさみしい気がした。

 カフェにでも行こうかと庭園の中を歩いていると、植え込みの陰で、人らしきものがうずくまっていることに気がついた。
 やたらと背が高くてやたらと痩せた、死神めいた風貌の男性だ。

「大丈夫ですか」

 声掛けに男性が振り返った。口元に血がついている。おそらく吐血していたのだろう。
 救急車を呼ぶべきかと一瞬躊躇したわたしに、男性が作り笑顔で答えを返した。

「ああ、ありがとう。大丈夫」

 聞き間違えるはずもない、その声。
 わたしは信じられない思いで、苦しそうに笑む男性を凝視した。

 うずくまっていてもわかる、二メートルを軽く超えるであろう高身長。煌めく黄金色の髪。
 落ち窪んだ眼窩の奥にある青い瞳は、意志の強い光を失うことなく。
 彫りの深い顔立ちに、げっそりと肉の落ちた痩せこけた頬とシャープな顎のライン。だが綺麗な歯並びとその白さが、かのひとのそれを思い起こさせた。
 キリンのように長くて細い首と、肩の落ちた上着とぶかぶかのパンツ。このスーツとネクタイの組み合わせに覚えがある。

 何故……こんなことに?

「代表?」

 男性の耳元でそう囁く。
 秘密主義で隠しておきたいことは決して口にしないが、嘘がつけないオールマイトは、全身をぎくりと硬直させた。

「な……なんのことかな……代表って誰だい?」

 まったく、わたしが何年あなたを見てきたと思っているのだろう。
 なんのこともなにもない。
 全身から汗を拭きだして動揺している姿は、肯定のあかし。

「ほら、口からまた血が出てますよ。代表」

 反射的に口元に手をやり、はっとしたように痩せた男性――オールマイト――は身を強張らせた。

「……」
「……」
「……うん……私」

 大きな身体を屈めて、オールマイトは観念したように眉を下げた。いたずらがばれた子供のようなその表情は、やっぱり変わらずかわいくて。
 本当にこのひとは……と、わたしは大きくため息をついた。

「見られてしまった以上、事情を話したい。今日、お子さんたちは?」
「子供たちは移動教室なので、明後日の夕方まで帰ってきません。ですから遅くなっても大丈夫です」
「……ここから一番近いバーでもいいかな」
「はい」

 オールマイトが選択したのは、けやき坂方面に向かう途中にある、バーの個室だった。個室はカップルシートだったので、オールマイトとわたしは並んで座った。今までの彼の体格であれば、このシートに並んで座ることなどできなかっただろう。それが少し切なかった。

 オールマイトはバーボンの水割りをシングルで注文し、わたしはギムレットを頼んだ。

「おや、今日はブルームーンじゃないのかい?」
「ポートワインを勧められていませんから」
「たしかにそうだね。君はギムレットの酒言葉を知ってるかい?」
「いいえ、知りません」

 もともと、酒言葉なんてものをわたしに教えたのはオールマイトだ。最初はポートワインだった。それまではお酒に花言葉のような意味があるなんて、考えたこともなかった。

 と、その時、オールマイトが激しく咳込んで血を吐いた。

「大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ」

 何もなかったようにおしぼりで血を拭い、オールマイトは肉の削げ落ちた顔で微笑んだ。
 そうだ、このひとはそういう人だった。
 こんなに血を吐いて、大丈夫なんかであるわけがないのに。
 そして異常なほどのこの痩せ方。それだけでもう尋常じゃない。
 それでもやっぱり、オールマイトは常のように笑う。

「ギムレットの酒言葉はね。『長いお別れ』」
「もしかしてレイモンド・チャンドラー由来ですか?」
「あたり。『ギムレットには早すぎる』ってセリフがあまりにも有名な小説だね」

 目の前に置かれた、薄い琥珀色のウイスキーと淡い緑色のカクテル。
 無言でかちりとグラスを合わせて、わたしはオールマイトの言葉を待った。

 オールマイトから聞かされた話は、とてつもなく重たいものだった。
 胃袋全摘、呼吸器半壊。先日の休暇はその治療によるものだと。
 きっとそれ以外にも隠していることがあるのだろう。でなければあの鍛え上げられた肉体が、ひと月程度でここまで衰えるはずがない。

「代表は……それでも引退を考えないのですか?」
「うん」

 眼を閉じてオールマイトは答えた。その顔には微笑が浮かんでいる。
 このひとはきっと、泣きたいときにも笑うのだ。
 オールマイトは話の合間にも、時折咳込み血を吐いた。
 怖くないはずがない。自らの衰えを恐れないはずはない。

 それでもきっとこのひとは傲然と胸を張り、死のその瞬間ですらまっすぐに正面を見据えて笑むのだろう。
 なぜならオールマイトは、平和の象徴なのだから。
 そんなこのひとに泣ける場所は、安らげる場所はあるのだろうか。

「ああ、飲み物がなくなってしまったね。みょうじくんはなんにする? いつもの?」
「いいえ。シェリーをいただきます」
「……シェリーにも、酒言葉があるんだよ」
「ええ。知っています」

 ごくり……とやつれたオールマイトが唾を飲んだのがわかった。わたしは眼をそらさずに彼の手を取る。先に目をそらしたのは、予想通り彼のほうだった。

「私にはもうその資格はないよ。状況が変わってしまったんだ」
「わたしね、好きな人がいるんですよ」

 オールマイトの言を無視するようにしてわたしは口をひらいた。

「初耳だね。君はお子さんのことしか見えていないのかと思っていたよ」

 少し妬けるな、とオールマイトが手元のバーボンを見つめる。
 殆ど手つかずのまま、氷がとけ水のようになってしまったバーボン。
 酒豪で知られたかつての彼は、酒をそんな状態になるまで放置したことはない。それが彼の衰えをあらわしているようで、とても、とても哀しかった。

「怪我をしてヒーロー業を引退することになった時、手を差し伸べてくれたひとでした。夫もとうに亡くし、子供を抱えて今後の生活への不安に震えていたわたしに、そのひとが『うちの事務所に来たらいい』と言ってくれた時、どれほどありがたかったことか」

 オールマイトが弾かれたように顔を上げる。
 ちょうどそこに、ウエイターが顔を出した。一息おいて、オールマイトがオーダーを通す。

「私はウーロン茶を。あと君、シェリーは何にする?」
「マンサニーリャ・ラ・ヒターナを」
「かしこまりました」

 そう答えてウエイターが去ったあと、わたしはオールマイトを見つめた。
 すっかり肉が削げ落ちてしまった頬。落ち窪んだ眼窩。かつての面影もないくらい、細く薄くなってしまった身体。

 ずっとあなたが好きだった。わたしはずっとあなたを見てきた。だからすぐに気がついたのだ。どんなに変わり果てた姿であっても、あなたはあなたであると。
 たとえ三十分であったにせよ、好きでもない男の誘いを、わたしは何度も受けたりしない。

「感謝の気持ちが尊敬に、尊敬の気持ちが恋慕に変わるまで、そう時間はかかりませんでした。彼もわたしを憎からず思ってくれていたようです。けれどわたしは一度も彼の気持ちに応えたことがありませんでした」
「それはなぜだい?」
「わたしは彼に相応しくないと思ったからです」
「相応しくない?」

 一瞬、痩せたオールマイトが厳しい顔をした。珍しいことだ。

「ええ。子持ちのアラサー女なんて、洋々たる未来が広がる彼には相応しくないと、そう思っていました」
「それは、君が決めることじゃないよ。彼が決めることだ」
「そうですね」

 わたしは彼に微笑んだ。

「だから、わたしと過ごす資格のあるなしを決めるのもあなたではありません。わたしです」

 オールマイトは影に隠れて見えにくい金色の眉を軽く上げ、ふっと小さく息を吐いた。
 そして彼はほとんど水のようになってしまったバーボンを一気に飲み干す。
 ちょうど、そこにおかわりが運ばれてきた。

「……まったく、君は断るのも断らせないのもうまいな」
「でしょう?」
「みょうじくん」
「これからは名前で呼んでください」

 わたしのいらえに軽く肩をすくめて、オールマイトは力なく笑った。
 どちらからともなく、シェリーグラスとロックグラスをかちりと合わせる。

「では、君のそのシェリー酒を、私に奢らせてもらえるだろうか」

 わたしは静かにうなずいた。

「ありがとう」

 オールマイトがそう囁いて、わたしの腰に枯れ枝のような手を回した。大丈夫かと少し躊躇しながら、彼の薄い身体に体重をあずける。

「この後、君を私の部屋に連れ帰ってもいいかい?」

 オールマイトが耳元でささやく。わたしはまたしても無言でうなずいた。
 彼愛用のバニラ交じりのウッディノートが鼻孔をくすぐる。
 腰に回された大きな手に、少しの熱と力がこもった。

「今夜、あなたにすべてを捧げます」それがシェリーの酒言葉。
 わたしたちはきっと、ここからはじまる。

2015.9.11

「ブルームーン・カルテット」のママのお話。女性が頼んだシェリー酒を男性が奢った場合「今夜は離さない」という意味になるそうです。
またこのお話は本誌でサー・ナイトアイが登場するより前に書かれたものです。彼の存在をどうしようか迷いましたが、このお話ではあえて初出のままにしました

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月とうさぎ