ギムレットには
早すぎる

 我が家の庭には、小さな枝垂れ梅がある。
 まだ寒いうちから花をつけ、本格的な春が来る前に散ってしまうピンク色のかわいい花。

 これから咲くつぼみと、盛りを終えて散るのを待つ花が、同じ木の中に混在している。

 あの枝垂れ梅は、まるでわたし達母娘のよう。
 これから花の盛りを迎え、日を追うごとに美しくなっていく娘と、これからどんどん衰えていくだろうわたし。

 娘はわたしの再婚と同時に、初めての恋をした。甘く切ないその想いは彼女を少し大人にさせた。

 娘はこの春、双子の兄と共に国立雄英高校のヒーロー科に入学する。
 優秀なのに驕らない、心の優しい双生児はわたしの宝物。

「ただいま」
「おかえりなさい」
「おかえりなさい、俊典さん。今日は早いんだね」
「ん、そりゃあね」

 帰宅した夫が、わたしにではなく『今日は早いね』と言った娘にニコニコしながらウインクした。

 わたしの心に、黒いなにかがじわじわと広がってゆく。

 娘の初恋の相手は、わたしの夫だ。彼女は随分前から彼に好意を寄せている。もう一年になるだろうか。

 とぼけているが、夫は娘の気持ちを知っている。
 わたしが娘の気持ちに気づいているのを、娘も夫も知っている。

 これが十四、五歳の中学生ではなく、娘ざかりの十八、九歳あたりであったのなら、夫はいったいどうしただろう。娘の情熱に心を動かされただろうか。
 もちろん信じている。若い娘のまっすぐな想いをいいように利用する人ではないと。
 けれどこれから私はどんどん衰えていき、娘はどんどん美しくなるだろう。
 例えば五年後、娘は二十歳を迎え、わたしは四十歳手前。その時に……美しく成長した娘を前に夫が心変わりしないと、どうしていえよう。

 そんな人ではない、ありえないとはわかっていても、暗い気持ちに囚われてしまうのは女の性だ。

 そんな後ろ暗い感情をなかったことにしながら、わたしは食事の支度をはじめる。

***

「わあ、俊典さん、ありがとう!」

 食後の洗い物をしていると、娘の嬉しそうな声が聞こえてきた。
 夫が娘にちいさな包みを渡している。

 そうか、今日はホワイトデーだ。

「かわいい!」

 はしゃいだ声に含まれた無意識の艶。夫はそれに気づいただろうか。

 夫から娘のへのホワイトデーのお返しは、アンティーク調のハートの小物入れの中にキャンディを詰めたものだった。小物入れもキャンディも淡いピンク色で、いかにも少女向けに作られたような愛らしさ。

 夫にとって、娘はまだ女ではなく少女なのだと安堵する反面、嬉しそうな娘の表情にわたしの胸がチクリと痛んだ。

 わたしは本当にイヤな女だ。
 娘にやきもちを妬くなんて、母親失格。

「なまえ」

 片づけが終わるタイミングに合わせて名を呼ばれ、わたしはなあにと振り向いた。

「君にはこれ、お気に召すといいんだが……」

 差し出されたのは薄緑色の紙袋だった。中に入っているのは紙袋と同じ色のリボンがかかった白い箱。リボンには欧州の高級宝飾ブランドのロゴがくっきり印字されている。

「開けていい?」
「もちろんだよ」

 箱の中身は、スペインに実在する宮殿の名前を冠した、このブランドを代表するラインのネックレスだった。
 白蝶貝の四葉の周りをホワイトゴールドがぐるりと囲む、特徴的なデザイン。

「ありがとう……とても素敵……ねえ、俊典さん、つけてくれる?」
「ああ」

 わたしは後ろ手で髪を上にあげた。夫が長い指でチェーンをすくって、そっとわたしの首にかける。
 ホワイトゴールドと白蝶貝のひんやりした感触が心地よい。

 わたしの喉のくぼみあたりで揺れる白い四葉を、夫は満足そうに眺めて微笑む。

「今日はね、いつもと違うカクテルを作ろうかと思うんだ」
「なににするの?」
「それはできてからのお楽しみ」

 ニコニコしながら夫がわたしにそう告げた。

 夫は痩せても枯れても平和の象徴、我が国を代表するヒーローだ。普段も動きに無駄がない。
 彼は流れるような仕草で、氷を入れたオールドファッションのグラスにドライジンを注いでいく。
 次にスライスしたライムを落とし、その上からコーディアルライムジュースを注いでくるりと軽くステアした。

「ギムレット?」
「いや、シェイクしていないからジンライム。だってほら、私たちにはギムレットはまだ早すぎるよ」
「またレイモンド・チャンドラー? 」

 ギムレットには、『長いお別れ』という夫の好きなチャンドラー作品から派生した酒言葉がある。

 夫がグラスの一つをわたしに手渡し、限りなく優しい目で微笑みかけた。
 晴れ渡った空のような、深く青い瞳で。

「ところで君、ジンライムの酒言葉を知ってるかい?」
「知らないわ」
「色褪せぬ恋だよ。まるで私たちのようじゃないか」

 子供たちの目の前だというのに夫は私にそう囁いて、額に唇を落とした。このひとはこうしてさらりとキザな言動をやってのけるから困るのだ。

 息子はしょうがねえなと片方の眉を跳ね上げ、娘は黙って目を逸らした。
 娘の瞳に痛みを含んだ影が生じたのを、わたしは見逃さなかった。

 夫は娘の気持ちを知っているのに、娘の前でも、自分がわたしに夢中であるとのアピールを欠かさない。
 かわりに彼はわたしと娘が同時に言葉を発した時、娘の方を優先する。まるで本当の父親がするように。
 それは夫なりの、娘への線引きの一つなのかもしれなかった。

 わたしはすこし恥ずかしくなる。
 娘とその若さに嫉妬していた、先ほどまでの自分自身に。

「なまえ、こっちを見て」

 夫が低く優しい声でわたしを呼ぶ。
 目の前には青くて深い色の瞳と、綺麗な色をしたカクテルがふたつ。
 シェイクしたギムレットは白濁するが、ステアしただけのジンライムは透明感のある薄緑色だ。

 手の大きい夫が持つと小さく見えるロックグラスは、わたしの手には少々余る。
 わたしたちはカクテルにはまだ口をつけず、何も言わずにただ見つめ合う。

 目の端に、息子が娘を伴ってリビングから去る姿がうつった。
 ごめんねと、心の中で娘に詫びる。

「色褪せぬわたしたちの恋に」

 わたしの言葉に、夫は一瞬目を丸くして、次に心から嬉しそうにわらった。

「乾杯」

 グラスを合わせるかわりに、夫はわたしの唇にキスを落とした。ほんの一瞬触れただけの、優しいキスだ。

 確かにわたしたちには、ギムレットはまだ早すぎる。

2016.3.18

ブルームーン・カルテットのママと俊典さんのお話

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