わたしは裾が乱れないよう注意をはらいながら、『砂漠のロールスロイス』の異名を持つイギリス製のSUVから降りる。
むき出しになっているうなじに、はらりと舞い降りたつめたいなにか。
音もなく空からはらりひらりと落ちてくる白い結晶を、手のひらでそっと受け止めた。
あっという間にとけてしまった儚いそれは、細雪。
「寒い?」
運転席から降り立った長身痩躯が、わたしの肩に大きな手を添える。
いいえと応えて、わたしは天鵞絨のコートの上に羽織ったショールをかきあわせた。首筋から侵入する風と細雪を防ぐために。
「降ってきたね。ひどくならないうちに中に入ろうか」
「そうね。それにしても素敵なところ」
うん、とオールマイトは満足そうにうなずく。
一万坪という広大な敷地であるにもかかわらず、客室がわずか15あまりしかないこの旅館は、とても贅沢なつくりだ。
各部屋が回廊で結ばれた平屋の建物。東屋や梅園を有する中庭。
四方を囲う甲斐の山並みと旅館に並行するように流れる小川のせせらぎが、和的情緒をかきたてる。
雪吊りを施された樹木を眺めながら、駐車場から玄関まで続く石畳の道をふたりで歩いた。
「ここはね、露天風呂がウリなんだ。各部屋に一つずつ露天風呂がついているし、ほかにも大浴場と、離れにも貸切りの露天風呂が二つあるらしいよ」
「それは楽しみだわ」
旅館は外観だけでなく、内装もわたし好みのつくりだった。
玄関は広い畳敷きで、天井の高いロビーは落ち着いた雰囲気を醸し出している。
長く続く回廊にはたくさんの窓が設えられ、庭園の様子が楽しめるようになっていた。
緻密に計算されつくした景観と、繊細なおもてなし。
通された室内もまた、立派だった。部屋に入ってすぐの和室には炬燵が用意され、奥には十畳の和室と床の間がしつらえられている。
その先にマッサージチェアが置かれた広縁があり、さらに向こうには部屋備え付けの露天風呂があった。
露天風呂はウッドデッキ調になっていた。外から見えないように竹垣の目隠しが施され、浴場の半分あまりを覆う枠だけの屋根には雨や雪をよけるためのよしずがかけられている。
そこに、木製の大きなチェアが置かれていることに気がつき驚いた。体を横たえられるタイプの、大きなものだ。
少し不思議に思いながらそれを眺めていると、後ろから大きな身体に抱きしめられた。
「なまえ、何見てるの?」
「ここ、露天風呂だけどちゃんと外から見えないようになってるのね」
「そうだね。女性の利用客も多いみたいだから。吹きさらしだと寒いだろうし」
耳朶に注ぎ込まれる低音はどこまでも甘く。
大きな右手が帯締めに伸び、左手が身八つ口から侵入をはかろうとする。
「そろそろ着替えてもいいかしら」
大きな手が悪さをするのをさりげなく拒みながら、ちいさく笑んだ。
「もちろんだよ。手伝おうか?」
「それはだめ」
「じゃあ、脱ぐところを見ていても?」
「それもだめ」
「残念だ」
オールマイトはなぜか自らの手で和装を解きたがる。
和服の帯をほどくのは、映画のように優美ではないのに。
慣れない人のようにたくさんの紐は必要ないけれど、体型補正はやっぱり必要。扁平な体を作るために胸はつぶさなくてはいけないし、ウエストにはぐるりとタオルを巻く。
男性が憧れる、『帯ほどきくるくる踊り』――時代劇なんかで殿様がお女中の帯をほどきながら「よいではないか」とやるアレだ――はあまり現実的ではない。
わたしとこういう仲になって久しいオールマイトは、その事実を知っている。それなのに。
アメリカンなイメージのあるオールマイトは、その実、繊細な和の雰囲気をとても好む。
その証拠に、彼はわたしが和服を着るととても喜ぶ。本日のわたしが着物姿なのはそのためだ。
「和服が似合いそうな旅館なんだよね。できれば着物姿でいて欲しいな」
そう甘えた声でささやかれて、抗うことができなかった。
先ほどのお願いも、もう少し粘られたら危なかった。優美ではない姿をその眼前にさらすことになっていたことだろう。
わたしはどうにも、あの強い男の甘えた姿に、とても弱い。
旅館の浴衣に着替えてオールマイトの前に行くと。彼もまた同じ衣装に着替えていた。
浴衣は背の高い彼に合った特注サイズだ。
細い首筋に浮き出た喉仏、まっすぐな鎖骨、骨ばってはいるがしっかりした肩。
痩せてしまったこの身体を、オールマイトは気に入っていない。
でもわたしはとても好き。
痩せてしまおうが筋骨隆々であろうが、このひとの根本にあるものはなにひとつとしてかわらないのだから。
じっと見つめていたせいだろうか。オールマイトが微笑みながら口唇をひらいた。
「どうしたんだい?」
「あなたは、旅館の浴衣を着ていても素敵だなと思って」
とたんにオールマイトの顔が朱に染まった。
さんざん甘い言葉をささやくくせに、このひとは自分が言われることにはとても弱い。そんな可愛い顔をされると、ますます甘やかしたくなってしまう。
「あんまりからかわないでくれよ」
照れ臭そうに言いながら、オールマイトはわたしをひょいと抱き上げて、膝の上に座らせた。
「ところで、さっき話した貸切りの露天風呂なんだけど」
「ええ」
「これから行かないか?」
「いっしょに入るのは恥ずかしいわ」
「そんなこと言わないで、お願いだよ。なまえ」
ね、と青い瞳に覗きこまれる。
まるで母親の様子をうかがう幼子のような瞳。このひとはときたまこうなることがある。
こうした子どものような邪気のなさや、少年のような初々しさ。英雄としての顔と、普通の男の人の顔、そしてベッドの上で見せる顔。
そのすべてが『オールマイト』を構築するために必要なものであるのだろう。
平和の象徴は、実にいろんな顔を持っている。
「でも、予約制だったりしないの?」
「ウン、実はもう予約しちゃってるんだ」
「うそ……何時から?」
「五時半から」
「あと十分しかないじゃない」
「ん、ダメかい?」
「ダメじゃないけど……」
大きな背中を丸めて、すまなさそうにこちらを見つめる青い瞳。それを可愛いと思ってしまった瞬間に、わたしの負けは決定した。
「もう、しょうがないわね」
「ありがとう。少し寒いけど、中庭を抜けて露天風呂まで歩こうか」
結局どこまでもオールマイトの提案に乗る形で、浴衣の上に綿入りの褞袍を羽織り、中庭におりた。
先ほどちらついていた細雪は、もうやんでいた。
中庭のそこかしこに焚かれたかがり火の炎が、夕闇の中庭をやさしく照らしている。石灯籠にも灯りがともり、周囲に植えられた細い唐竹の緑の葉を柔らかに見せていた。
飛び石の周りに植えられた山茶花の紅と白の花が、華やいだ気分を盛り立てる。
LEDに彩られた今風のイルミネーションもいいが、こういった『和』そのもののしつらえもまた美しい。
「このお庭、とても素敵ね」
「貸切りの露天風呂には回廊を通っても行けるけど、君はこの中庭が好きなんじゃないかと思ったんだ」
「ええ、ありがとう」
ほんとうにすてき、と薄い身体にすり寄ると、肩をそっと抱き寄せられた。
***
オールマイトが言うように、貸切りの露天風呂は二つあった。
想像以上に立派なつくりだ。
建物は蔵造り、入り口には大きなのれん。
二つあるお風呂には『月』と『星』という名がついていた。オールマイトがとってくれたのは『月』の方。
「先に入っていてくれる? 恥ずかしいから、あとから行くわ」
「ん。わかった」
先に行ったオールマイトが湯船につかったのを音で確認し、わたしもするりと浴衣を脱いだ。しずかに露天風呂への扉をあける。
部屋のものと同じように四方は背の高い竹垣で覆われ、浴槽の上には雨除けのよしずの屋根がある。
すっかり日が落ちた空は、薄鼠色の雲に覆われていた。
残念。お天気がもう少しよければ、東京では見られないたくさんの星の瞬きを楽しめただろうに。
すると薄鼠色の空から、はらり、と白いものが落ちてきた。小さくて白くて、冷たい結晶。雪だ。
「おいで」
体を流して湯の中に入ると、長い腕に包みこまれた。
「なまえ、今日はたくさんわがままを聞いてくれてありがとう」
わたしを抱いたまま、低い声でオールマイトが囁いた。いいのよとわたしはそれに応える。
平和の象徴、正義の象徴、それがわたしの愛しいひと。
満身創痍の体に鞭をうち、人のためにと生きるひと。
だからわたしの前でくらいは、たくさん甘えてくれていい。誰より強いひとにこそ、縋れる場所は必要だろう。
男に対して母親のようになってしまうのは、とても危険なことなのだけれど。
オールマイトの腕の中ですべらかなお湯の手触りを楽しんでいると、上から残念そうな声が降ってきた。
「失敗したなあ、ご飯、六時半にしちゃったんだよね……」
「だから?」
「時間がないよね……だからここで楽しめるのはお風呂だけってこと」
ああ、そういうことなのね……あなたが今したいと思っているそれはね、時間があってもここではだめよ。
「ヒーローが公共の場で不健全なことをするのはどうかと思うわ」
「ン、そりゃそうだ」
あとでたっぷりね、と囁いて、オールマイトはわたしの髪に唇を落とす。
長い腕に抱かれながら、わたしは空を仰いだ。
はらはらと落ちてくる白くて小さな結晶たち。花びらが舞うように降りてくる冷たいそれを愛する男の腕の中で受け止められる、このひとときのなんと喜ばしいことか。
「ねえ」
「なんだい?」
「幸せよ」
「……私もだ」
言葉とともに落とされる口づけは、熱くそして甘かった。
全室に露天風呂が完備された、静謐な隠れ宿。
甲斐の山間に、その宿はある。
2015.12.22
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