おせち料理もできあがり、あとは綺麗に詰めるだけ。今は元旦からお店があいているから必要ない料理なのかもしれないけれど、縁起物だもの。こういう細やかな伝統も大事にしたい。
「寝たよ」
おせちをお重に詰めていたわたしに、二階から降りてきた夫が静かにそう言った。
一人娘は普段わたしと二人で過ごすことが多いせいか、夫がいる日はべったりだ。今日もパパと寝るんだと頑張って、ふたりで寝室に消えてしまった。
根が優しい夫は夫で、娘にメロメロ。まるで小さな恋人に接するようなその姿に、わたしは時々ヤキモチを妬いてしまう。三歳の娘にヤキモチを妬く母親というのも、どうかと思うけれど。
「寝かしつけてくれて、ありがとう」
「永遠に一緒に寝てくれるわけじゃないからね、お風呂もそうだけど、できるうちはやりたいと思うんだ。それに普段大変なことはすべて君がしてくれているからな。これくらいはしないとね」
わたしの手元を覗き込みながら夫は続ける。
「美味しそうだね。なにか手伝えることはあるかい?」
「あとは詰めるだけだから、大丈夫よ」
仕事ができて、優しくて、カッコいい。非の打ちどころがない夫にわたしは答える。
「今日の午前までお仕事だったから疲れているでしょう? 先にリビングで休んでいて」
「ありがとう」
我が家はキッチンの向こうがダイニングとリビングに続いている、いわゆるオープンキッチンだ。
ダイニングテーブルの向こうに敷かれたふかふかのラグとその上のクッションに座った夫が、嬉しそうに笑う。
「私、一度リアルタイムでこれを見てみたかったんだよね」
夫は自他ともに認める、ナンバーワンヒーローだ。平和の象徴は、年末年始も忙しい。
だが今回、大みそかの夜と元日に夫は休みを取った。結婚して五年経つが、夫が家で年を越すのは初めてのことだった。
夫が見てみたい、と言っていたのは視聴率の高い年越しバラエティ。
お笑い芸人がたくさん出てきて、笑うとペナルティをうけるという、ただそれだけの番組だ。
「うわ、こんな大物も出ちゃうんだ」
ハリウッドに進出し成功を収めた俳優が歌いながら登場したのを見た夫が、呆れたような声を出す。大晦日にばかばかしいバラエティを見て笑いあえることを、わたしはとても幸せに思う。
お正月の準備をすべて終え、わたしも夫の隣に腰を下ろした。
床暖房で暖められた床と、ふかふかのラグと、ふわふわのクッションと、しっかりしたローテーブルと、そして優しい夫。
幸せだ。幸せだけれど、わたしたちの間には目には見えない小さなほころびのようなものがあるような、そんな気がする。ほころびから入りこんだ冷たい風が、互いの熱をさましていくようで、少しさみしい。
かつて貪りあうようだった官能的なセックスは、娘を宿したその時から落ち着いた交わりに変わってしまった。
妊娠中はわたしの体を気遣っての優しい交接。娘が生まれてからは、寝ている子を起こさないように粛々と行われる交合。
おざなりなわけではない、温かく思いやりにあふれた夫婦の営み。この状態を安定と呼ぶのか、それとも倦怠と呼ぶのか。
かつて名前で呼び合っていたわたしたちは、いつしか互いを「パパ」「ママ」と呼びあうようになった。「俊典」と「なまえ」という男女ではなく、「父親」と「母親」になってしまった。
それはとても幸せなことだ。娘は何よりも大切だし、可愛く、愛しい。
けれどやはり、どうしようもなくさみしくなることがある。
この世を支え守る英雄の家族になれたことを誇らしくも嬉しく思う反面、夫は、俊典はわたしのことをもう「娘の母」という目でしか見てくれないのだろうかと、切ない気持ちになってしまう。
「こうしてふたりでゆっくりするのも久しぶりね」
「そうだね」
「この頃あなたはずっと忙しかったから。クリスマスイブと大晦日と元旦をあの子と過ごすために、いつにもまして無理をしていたでしょう?」
「私がその三日間を共に過ごしたかったのは、あの子だけじゃないよ」
やんわりオールマイトが訂正する。
「私は、君とも一緒に過ごしたい」
わたしはそれには答えず、視線をテレビに向けた。
そこに映し出されているのは、他愛のないバラエティ。
今年の舞台は病院のようだ。ナースの格好をさせられた芸人さんたちが、ゲストの到着を待っている。
大きな病院というものはどこも似通ったものなのだろうか。液晶画面に映し出されている病院は、かつて夫が入院していた病院に少し似ているような気がした。
オールマイトが臓器を失う大怪我を負ったあのとき、この世の終わりのような気持ちになった。
いくつものチューブにつながれ、幾度も手術を繰り返すオールマイトの姿を見ながら、どうかこのひとをわたしから奪わないでくださいと、どれほど神に祈っただろう。
ヒーローでなくてもいい、ただ、ただ生きて、わたしの隣で笑っていてほしいと。
それなのに今、『女』として見てもらえなくなったなどと嘆くわたしは、おそらくきっとわがままだ。
人は、どこまでも欲深い。
その時、夫が急にテレビを消した。
「あら、もういいの?」
「ん、面白かったけど、今の番組はもういいかな」
夫は真剣な顔をしてこちらに向き直った。肉が削げ、こけてしまった頬。それでも落ち窪んだ眼窩の奥の青い瞳は、誰よりも強い輝きを放っている。
「それより君と話したい」
「……ありがとう」
「なまえ」
真剣な様子の夫にあらためて名を呼ばれて、どきりとした。
はじめてオールマイトに声をかけてもらった時、天にも昇る気持ちだった。
指輪の入った小さな包みを差し出されてプロポーズされた時、もうこのまま死んでもいいと思った。
その時のようなときめき。名前を呼ばれた、それだけなのに。
「どうしたの? 急に」
「なにが?」
「あなたがわたしを名前で呼ぶなんて」
「うん、この頃ずっと君をママって呼んでただろ。君も私をパパって呼んでたし」
「ええ」
「実はね、ちょっとさみしかったんだ」
「え?」
「君にとって私はもう『男』じゃないのかなって」
わたしはよほど驚いた顔をしたのだろう。夫が申し訳なさそうに続ける。
「ゴメン。引いたかい? 父親としての自覚がないわけじゃないんだよ。娘は可愛いし、大切だし、あの子の為なら死んだっていいと思う。でも君にだけは、いつまでも男として見てもらいたいというか、その……なんというか……」
カッコ悪いな……と夫は少女のように両手で顔を覆った。
まったく、本当にずるいひと。
けれど涙が出そうなくらい嬉しかったのも、また事実。
「ありがとう。実はね、わたしも同じことを考えてたの」
「え?」
「あなたにとって、わたしはもう『女』じゃなくて『母親』なのかなぁって」
「そんなはずないじゃないか」
うん、とわたしはうなずく。
「来年は……というか今から、二人でいる時は君を名前で呼んでもいいかい?」
「ええ……ありがとう……俊典さん」
久しぶりにその名を呼ぶと、夫……俊典はくすぐったそうに肩をすくめた。
「ね、もうひとつお願いがあるんだけど」
わたしの肩を抱きながら、俊典が耳元でささやいた。腰のあたりに熱を感じながら、それでも平気な体を装いわたしは答える。
「なに?」
「久しぶりに、時間をかけて抱いてもいい?」
「え? 今? ここで?」
「あの子が寝ている隣でして、起こしちゃっても困るだろ?」
「それは……そうだけど」
「それに君、声を抑えられるかい? 私、今夜はしつこいよ」
「……たぶん無理」
「じゃあ、やっぱりここでだね。いいだろ、なまえ」
耳朶に流し込まれた低音は、わたしの体をじわじわと官能へと染めていく。
ああもう、本当にずるいひと。
上目づかいで青い瞳を睨み付けたのに、嬉しそうに笑まれてしまった。
ふかふかのラグの上に静かに横たえられたと同時に、優しいキスが降ってきた。触れるだけだった優しいそれが、徐々に角度を変えて深い口づけへと変わっていく。
子どもの前ではパパとママ、二人になったら男と女。
十二月の末日を、大月籠り―おおつごもり―と人は呼ぶ。
月が隠した互いの愛を、今宵はゆっくり確かめ合おう。
来年も、再来年も、その先も、ずっとずっと続けばいい、こうして暮らせる幸せが。
これから先もずっと、大月籠りをあなたと。
2015.12.31
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