一つは緑色の瓶のわたしの香水、そしてもう一つはオールマイトのもの。
黒い蓋にシンプルな四角いガラス瓶のこの香水は、まるで彼そのもののようだ。
オールマイトが広告塔になった製品はたいていヒットするが、この香水は一部の大人の男にしか受け入れられなかった。
何故なら、この香りはつける人間を選ぶから。
他に似たものがなく、一度嗅いだら忘れない、華やかで濃厚なその香り。
最初濃すぎて苦手だと思っても少し経つとまた嗅ぎたくなる、そんな魅力のある香水。
でも、その香りに包まれて眠る日はもう来ない。
わたしは今日、オールマイトには何も告げずにここを去る。
直接話しあったりしたら、別れることができなくなってしまうだろうから。
ここからの景色も、これで見納め。
窓の外に広がるのはクリムゾンレッドの夕焼けだ。
二人での生活が始まった最初の夕方、同じ色の夕焼けを見ながら赤いワインで乾杯した。
早いものだ。あれからもう、八年も経つ。
この八年は、長いようでとても短かった、寂しかったけれど幸せでもあった。
東京タワーの灯りが落ちるその瞬間を、何度ふたりで眺めたことだろう。
幾度となく身体をかさねた夜、幾度となく迎えた朝。
キングサイズのベッド。
革張りのソファ。
ピンクのシャンパン。
白磁のカップに淹れられた香り高い紅茶。
優しい毒という名のわたしの香水と、利己主義者という名の彼の香水。
まっすぐ前しか見ない人だ。
どんな状況化に置かれても自らの信念を曲げず、意思を貫き通す人。
そんな彼を愛していた。支えていきたいと思っていた。
でもそれももう限界。
興奮しただけで血を吐くような身体で、それでも人を救おうとする彼の姿を、見守るのがもうつらかった。
活動するたびにぼろぼろになっていく、彼を見るのがつらかった。
誰かのために命をかける彼の無事を祈りながら、一人この広い部屋で待ち続ける暮らしに、わたしはもう疲れてしまった。
一人ぼっちでいる孤独より、二人でいるのに抱く孤独のほうが闇が深いと知ったのも、オールマイトと暮らすようになってから。
オールマイト、自己を犠牲に人を救ける、自己を殺したエゴイスト。
『みんなのオールマイト』は、最後まで『わたしの俊典』にはならなかった。
わたしは視線を、窓の外から二人で暮らした部屋に移した。
配送業者によってわたしの荷物がすべて運び出されたこの部屋は、やけにがらんとして見える。
自分のものなどたいしてないと思っていたのに。
わたしはこの広い部屋に、この緑色の香水瓶をひとつ残していこうと思う。そうしたら、彼はその香水瓶を見るたびに、わたしのことを思い出すだろう。
わたしが彼愛用の香水を見るたびに、オールマイトを思い出すように。
わたしは自身の香水瓶の隣に鎮座している香水を手に取った。
柑橘類が弾けたすぐ後に、きりりとしたシナモンとコリアンダーが追いかけてくる。その下から漂ってくるのは甘いバニラと華やかなローズ。やがて白檀がそれらすべてを包み込むように匂いたつ。
それはまるであの人そのもののような、強い個性のある香り。
2016.1.31
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