恋の残り香
〜TENDRE POISON〜

 二週間前の夜、帰宅して扉を開けたら、なまえがいなくなっていた。
 どこに行くのかも、これからどうするのかも、別れの言葉すらも告げることなく。

 なんとなく、こんなことになるんじゃないかという予感はあった。
 原因はわからなかったが、ここ最近、なまえはどことなくよそよそしかった。

 男と女というものは一度亀裂が入ったら、双方がかなりの努力をしないと修復できないものだ。
 私はなまえとの間に、小さな亀裂が入り始めているのに気がついていた。入った亀裂に気がつきながら、それが大きくなっていくのをただ見ているだけしかできなかった。

 私は手を伸ばして、なまえが残していった緑色の香水瓶を手に取った。あの日テーブルの上に、ぽつんと置かれていた二本の香水瓶。
 一つは私の愛用品、もう一つは優しい毒という名のこの香り。
 なまえはなぜこれを置いていったのだろう。廃版になって久しいこの香水は、状態のいいものを手に入れるのがもう難しいと言っていたのに。

 コロンとした丸いキャップを開けて、中の香りを確かめる。
 マンダリンオレンジが弾けた後にスズランが香り、次にローズとイランイランが追いかけてきた。ラストに残るのは、白檀とムスクと甘いバニラだ。
 外国製の高級石鹸を思わせる爽やかなグリーンノートに隠れた、甘く妖艶な誘惑の香り。その香りにつけられた、優しい毒というネーミングの妙。

 軽く頭を振って、私は窓の外を眺めやった。
 きらびやかな人口の星々の中にそびえ立つ、東京タワーのオレンジ色の灯り。
 あの灯りが消える瞬間を共に観たカップルは幸せになれるのよと、なまえに聞かされたのはもう八年も前のことだ。

 八年……口の中で呟いて、愕然とした。なまえと暮らして、もうそんなに経つのかと。
 クリムゾンレッドの夕焼けを見ながらワインで乾杯したあの日、なまえは二十代の半ばを過ぎたころだった。
 自分のような男と過ごした適齢期での八年は、とてつもなく長いものだったに違いない。

 なんということだ。なまえを失って初めて、私はそこに思い至った。
 結婚という言葉をなまえは一度も口にしなかったけれど、心の中ではずっと待っていたに違いない。

 だが結婚などまだできようはずもなかった。私には倒さなければいけない強大な敵がいる。
 語らずともなまえならわかってくれていると、そう思いこんでいた。
 馬鹿な甘えだ。超能力者でもない限り、心の中など読めはしないものを。

 なまえを失って気づいたことはもう一つある。
 ふたりでいた時には気づかなかったが、華やかなこの大都会の中ただひとりでいると孤独が際立つ。

 ここは何でもある街だ。だが、一番大事な君はもういない。

 なまえ、君の不在は遅行性の毒だ。じわじわと私の心を蝕んでいく。
 この毒から逃れるすべを、私は見つけることができない。
 酒の力を借りても眠れぬ夜を、私は今宵も過ごすのだろう。

 緑色の香水瓶を手にしたままだったことに気づき、私はもう一度溜息をつく。

 ―TENDRE POISON―優しい毒。
 それは、なまえそのもののような香りだった。

2016.1.31
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