どこに行くのかも、これからどうするのかも、別れの言葉すらも告げることなく。
なんとなく、こんなことになるんじゃないかという予感はあった。
原因はわからなかったが、ここ最近、なまえはどことなくよそよそしかった。
男と女というものは一度亀裂が入ったら、双方がかなりの努力をしないと修復できないものだ。
私はなまえとの間に、小さな亀裂が入り始めているのに気がついていた。入った亀裂に気がつきながら、それが大きくなっていくのをただ見ているだけしかできなかった。
私は手を伸ばして、なまえが残していった緑色の香水瓶を手に取った。あの日テーブルの上に、ぽつんと置かれていた二本の香水瓶。
一つは私の愛用品、もう一つは優しい毒という名のこの香り。
なまえはなぜこれを置いていったのだろう。廃版になって久しいこの香水は、状態のいいものを手に入れるのがもう難しいと言っていたのに。
コロンとした丸いキャップを開けて、中の香りを確かめる。
マンダリンオレンジが弾けた後にスズランが香り、次にローズとイランイランが追いかけてきた。ラストに残るのは、白檀とムスクと甘いバニラだ。
外国製の高級石鹸を思わせる爽やかなグリーンノートに隠れた、甘く妖艶な誘惑の香り。その香りにつけられた、優しい毒というネーミングの妙。
軽く頭を振って、私は窓の外を眺めやった。
きらびやかな人口の星々の中にそびえ立つ、東京タワーのオレンジ色の灯り。
あの灯りが消える瞬間を共に観たカップルは幸せになれるのよと、なまえに聞かされたのはもう八年も前のことだ。
八年……口の中で呟いて、愕然とした。なまえと暮らして、もうそんなに経つのかと。
クリムゾンレッドの夕焼けを見ながらワインで乾杯したあの日、なまえは二十代の半ばを過ぎたころだった。
自分のような男と過ごした適齢期での八年は、とてつもなく長いものだったに違いない。
なんということだ。なまえを失って初めて、私はそこに思い至った。
結婚という言葉をなまえは一度も口にしなかったけれど、心の中ではずっと待っていたに違いない。
だが結婚などまだできようはずもなかった。私には倒さなければいけない強大な敵がいる。
語らずともなまえならわかってくれていると、そう思いこんでいた。
馬鹿な甘えだ。超能力者でもない限り、心の中など読めはしないものを。
なまえを失って気づいたことはもう一つある。
ふたりでいた時には気づかなかったが、華やかなこの大都会の中ただひとりでいると孤独が際立つ。
ここは何でもある街だ。だが、一番大事な君はもういない。
なまえ、君の不在は遅行性の毒だ。じわじわと私の心を蝕んでいく。
この毒から逃れるすべを、私は見つけることができない。
酒の力を借りても眠れぬ夜を、私は今宵も過ごすのだろう。
緑色の香水瓶を手にしたままだったことに気づき、私はもう一度溜息をつく。
―TENDRE POISON―優しい毒。
それは、なまえそのもののような香りだった。
2016.1.31
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