花筏U

 オレンジ色に暮れなずむ公園内を、とぼとぼと、ひとり歩いた。
 東京では4月の頭に終わってしまう桜も、ここ北国では4月末から5月頭にかけて見頃を迎える。残念ながら昨日からの強風で、ソメイヨシノはすっかり葉桜になってしまったが、八重紅しだれは満開だ。

 日本三大桜の名所と謳われるのは伊達ではない。公園内の桜は50種類にものぼる。地元をひいきするつもりはないが、わたしはこのお城の桜が、一番見事だと思う。
 それに、散った桜がお城の堀を埋め尽くす、花筏。地元では桜の絨毯とも呼ばれるその光景は、他で見られるものではない。

 それだけに、観光客の数も相当なものだ。殊に今日は5月の大型連休のまっただ中であり、メインステージに人気ヒーローがきているとくれば、なおのこと。

 ステージからずいぶん離れたここまで響いてくる、彼を呼ぶ声。
 北国に到着したと同時に、事件をふたつみっつ解決し、高らかに笑うナンバーワンヒーロー、オールマイト。
 彼は、本名を、八木俊典という。

***

「大事な話があるんだ」

 部屋につくなり、俊典が言った。それは一月ほど前……「君の両親に挨拶したい」と言った彼と、ソメイヨシノが花びらを散らす川沿いのレストランで食事をした、その日のことだ。
 とりあえずとお茶の用意をしようとしたわたしを制しながら、俊典は続けた。

「重大なことなんだ。君のご両親に会うなら、その前に、君にだけは真実を話しておかなくてはいけないと思ってね」
「ずいぶん大げさなのね」

 うん、と、俊典は答えた。その瞳の色の真剣さに、一瞬、ひるんだ。

「私はね、仕事の時には、今とはちょっとだけ違う姿になるんだ」
「個性の使用で?」

 この問いには答えず、俊典は軽く目だけで笑った。これは無言の肯定だ。
 わたしは彼の仕事について、よく知らない。ヒーロー事務所に勤務していることだけは聞かされていたけれど、所長たるヒーローが誰であるのか、また職種はなんであるのか、わからない。
 けれど、職場で個性の使用を認められているということは、彼もまたヒーローなのだろう。
 意外だった。事務職だとばかり、思いこんでいたから。

 俊典はちょっとしたことですぐに血を吐く。出会った頃は、それにずいぶん驚いたものだった。
 深い仲になってから知ったことだが、彼の胸には、とても大きな傷がある。放射状の痛々しいものだ。なぜそのような傷を負ったのかは知らないが、吐血はそのせいだろう。そして俊典がヒーローだというのなら、それだけの傷を負った理由も頷ける。
 ヒーローに負傷はつきものだから。

「君に採寸してもらったこともあるよ」
「え?」
「……少し、痩せてしまったからね」

 ゆっくりとそう告げた俊典の青い瞳を、信じられない気持ちで見つめ返した。
 嫌な予感に総毛立つ。足のつま先から頭のてっぺんまで、一気に立ち上ってきたこれは、ある種の恐怖によるものだ。
 同じ理由でコスチュームの依頼をしてきたヒーローに、覚えがあった。

 身長……同じくらい。
 瞳の色……それも同じ。
 髪の色も、また同様で。

「察したって顔だね。そう、私のヒーロー名は、オールマイトだ」

 かえす言葉もなく呆然としてしまったわたしを、俊典が見おろした。優しいけれどまっすぐな視線。それすらもいたたまれなくて、彼から目をそらした。

「……なまえ」

 すまなさそうな声を受けて、心が痛んだ。

「ごめんなさい……驚いてしまって。悪いんだけど、ちょっと一人で考えさせてほしいの」

 俊典の顔を見ることもできず、そうつぶやいた。
 続けて、はっと息を飲むような気配。
 きっと俊典は傷ついたろう。それに対して、心咎める気持ちはあった。けれど、今の自分の気持ちを、どう整理したらいいかわからない。

 少しの沈黙が場に流れ、やがて諦めたように、俊典が立ち上がった。

「わかった。また連絡するよ」

 悲しげな低い声に、無言のままうなずくしかできなかった、わたし。
 ごめんなさい、と、もう一度呟いた声は、扉の閉まる音にかき消された。

***

 俊典とはそれきりだ。
 5月の連休に一緒に見ようと約束した、わたしの故郷の花筏。
 彼は覚えているだろうか。

 あんな態度をとってしまって、あきれられてしまったかもしれない。面倒だと思われたかもしれない。だって彼はオールマイトだ。
 八木俊典は女性への接し方が実にスマートなひとだった。だから、そこそこもてるだろうとは思っていた。が、彼がオールマイトであるならば、言い寄る女性は、それこそ星の数ほどいるだろう。

 わかっている。こんなにも不安になるのなら、こちらから電話なりメッセージなりを入れれば良かったのだ。
 けれど、驚いたからと言って、あんな風に追い返してしまった手前、こちらから連絡することは憚られた。俊典が多忙なスーパーヒーローだとわかってしまった今となっては、なおさらだ。
 それに、未だわたしの中に、大きな迷いがある。

 怒っているわけでは、決してない。彼の置かれている状況を思えば、正体を明かすことなど、そうそうできることではなかっただろう。
 わたしを迷わせているのは、俊典がオールマイトであるという、その一点。
 パタンナーという仕事柄、わたしはヒーローのコスチュームも多く手がけてきた。
 その中で、仕事上の事故で手足を失ったヒーローからの依頼もあった。
 驚くべきことに、彼らは手を失おうが足を失おうが、それでも戦おうとする。体の一部を失ったから新しい型紙を引いてくれと、いとも簡単に言ってくる。

 己を犠牲にして、世を救う。それがヒーロー。
 立派だと思う。彼らがいるから、わたしたち民間人は平和に暮らしていける。

 けれどそれが己の大事な人間となると、まったく話は別だった。
 しかも俊典は、オールマイト。平和と正義の象徴。
 俊典の身体が尋常な状態でないことくらい、わたしにもわかる。けれどオールマイトは、それをみじんも見せはしない。
 肉体と同様、どこまでも強い精神力。
 わたしが見てきたヒーロー同様、いやそれ以上に、オールマイトはヒーローであり続けようとするだろう。
 わたしはそれに、耐えられるだろうか。黙って俊典、いや、オールマイトを、見守り続けることができるだろうか。

 それでもやっぱり、俊典のことは大好きで。

 暮れなずむ春の宵。美しい曲線を描いて、降り注ぐように咲き乱れる、しだれ桜。その向こうに咲くのは八重桜だ。夕日が淡紅色の花の束をひときわ際立たせている。見下ろしたお堀に浮かぶのも、また一面の桜だった。八重よりも淡い色のソメイヨシノの花びらが織りなす桜の絨毯は、それはそれは見事なもので。
 この景色を、俊典と共に見たかった。
 どうしてこちらから連絡を入れなかったのだろうと、強い後悔の念にかられた、その時だった。

「やあ」

 突然、背後からかけられた、低い声。
 反射的に振り返った先に立っているのは、今の今まで想い続けていた、痩せて背の高い彼の姿。

 一陣の風が吹いて、しだれ桜の花びらが、大きく散った。

「会えて良かった。お堀の周りを一周してしまったよ」

 俊典は息を切らしていた。もしかして、わたしを探してくれたのだろうか。この広大な城址公園を。

「来てくれなかったらどうしようかと思っていたんだ」

 そう言いながら細められた、スカイブルーの目。その中に、小さな不安と安堵の色を見つけたとき、彼が今日まで連絡をしてこなかった理由が、なんとなくわかるような気がした。
 
「その……この間はごめん」
「いいえ、わたしのほうこそ」

 素直に言葉が滑り出た。
 巨大なしだれ桜の下に立つ背の高い彼は、微笑んでいるのに、とてもはかなく寂しげに見えた。このひとは、世の栄光をすべて手に入れたというのに、どうしてこんなにも儚げなのだろうか。

「驚いたからってあんな態度をとってしまって、悪かったわ。ごめんなさい」

 桜に攫われそうな風情の俊典を前に、このひとを守りたいと、強く思った。
 もちろん、ヒーローとしてのオールマイトを守ることなど、誰にもできない。けれど、今このひとが抱えている不安を和らげることは、きっとわたしにしかできない。

 桜の精のように微笑み続ける俊典の大きな手を、そっと取った。
 ごつごつと節くれ立った、世界を救い続ける、大きな手。

「ねえ、あの夜から、あなたの気持ちはかわっていない?」

 わざと、甘えた声でささやいた。ぱあっと花が咲いたように、俊典が笑う。

「もちろんだよ」

 本当にわたしでいいの、とたずねようとし、やめた。それは、あまりにも愚問だから。
 俊典が、いや、オールマイトが、中途半端な気持ちで自分の正体を明かすとは思えない。

 そこここに設置されたぼんぼりに、あかりが点され始めた。ライトアップされた花たちは、先ほどとはまた違う、金がかった桜色へと姿を変える。

「君が言ったとおり、本当に、ここの桜は見事だね。絶景だ」
「でしょう?」

 俊典に笑みを返してから、携帯を取り出し、受話器のマークのアイコンを押した。よく使う項目から、実家と書かれた文字をタップする。すぐに聞こえてくる、呼び出し音。五回のコールを経て、電話が繋がった。

「もしもし、お母さん? ええ、わたし。急で悪いんだけど、会って欲しい人がいるの。ううん、特に何も用意しなくていい。ただ、彼を紹介したいだけ。ええ、ええ、そうよ」

 そんな唐突に、まさか、お付き合いしているひとなの?、と、動揺し続けているであろう母に、今まで黙っててごめんなさい、とだけ告げて、電話を切った。

 俊典がわたしの髪に乾いた唇を落とした。わたしも彼の指に、唇を当てた。
 そしてわたしたちは歩き出す。
 ひと月前のあの日のように。

「ところで、姿がかわるのはどうして? そういう個性なの?」
「いや。気合いの問題」
「はい? 気合い?」
「プールなんかで腹筋に力をいれてお腹をへこませている人がいるだろ。アレさ」
「ええ?」

 おもわず頓狂な声を上げてしまったわたしに、俊典が高らかな笑い声をたてる。
 一陣の風が吹き、しだれ桜の花びらが、わたしたちの足下でロンドを踊った。


2019.8.10
- 44 -
prev / next

戻る
月とうさぎ