ふうとため息をついたと同時に、かしゃり、と、電動ロックが解除される音がした。
「ただい……」
帰宅を告げる挨拶も終わらぬうちに、こちらに向かって身を躍らせてきたのは、私の年若い妻。
「お帰りなさい」
「……ただいま」
飛びついてきたなまえをしっかりと受け止め、ただいまのキスを頬に落とした。
驚かれそうな出迎えの仕方だが、なまえはたいていにおいてこんな感じだ。共に暮らすようになってからもうずいぶん経つというのに、私のなまえはいつまでも初々しくて実にかわいい。
「ご飯は食べてくるって言ってたけど、お夜食はまだでしょ? なにか食べる?」
子犬のようにまとわりつきながら尋ねてきたなまえに、うん、と答えて、今度は唇に触れるだけのキスをひとつ。
「でも、その前に、お風呂に入ってもいいかな?」
「うん。その間にお夜食を作っておくね。トマトのリゾットでいい?」
「ああ、ありがとう。美味しそうだ」
「飲み物はホット? それともアイス?」
「風呂上がりだし、冷たい方がいいかな」
「香りつきのルイボスティーでいい?」
「ハイビスカス入りのすっぱいやつかい?」
「ううん。今日のはレモンフレーバー。でも香りだけだからすっぱくないよ」
「さわやかでいいな。それで頼むよ」
じゃあ、あとでね、ともう一度なまえにキスをして、バスルームに向かった。
***
浴室の扉を開けた私を出迎えたのは、甘い甘い苺の香り。
入浴剤が好きななまえは、いろいろなメーカーのいろいろな入浴剤を常時用意している。幸い私もそういったものが嫌いではないので、香り豊かなバスタイムを日々楽しませてもらっている。
しかし、と、ピンク色の湯につかりながら、思う。
こんな時間ーーすでに二十三時を回っているーーに、嫌な顔一つせず夜食を用意してくれる人がいることは、本当に、大変恵まれたことだと。
胃袋のない私は、ダンピング症状を避けるため、一日の食事を五〜六度にわけて取らなければならない。朝、十時前後、昼、三時前後、夕飯、そして夜食。それらを毎日用意するのは、容易なことではないだろう。
なまえには、諸々、苦労をかけていると思う。
肉体的なことだけでなく、精神的な面でもだ。
まず、私は結婚していることを公にしていない。数年前のこの月に小さな教会で式はあげたが、なまえが憧れていた派手な披露宴はおこなわなかった。それについても、いろいろ不満があったことだろう。すべてはなまえの安全を慮ってのことだが、それでもきっと、結婚というイベントに大きな憧れを抱いていた彼女にとっては、つらいことであったと思う。
また、私は無理を押してヒーローを続けていた。満身創痍で世を支え続ける、正義のヒーロー。言葉にしたら聞こえはいいが、それを実践するのが己の身内であったなら、どれだけその身を案じることか。
もしもこれが逆の立場であったなら、耐えきれるだろうかと自問して、無理だろうなと自答した。
なまえになにかあったら、私はどうなってしまうだろうか。想像することすらしたくない。そうだ。いつしかこんなにも、私は彼女に依存してしまっている。
なまえと出会うまで、己は一人で生きるのだと、そう言い聞かせてきた。ヒーローは常に孤独なものだからと。
だが、なまえを愛して初めて知った。ヒーローとしてではなく、ただのひとりの男として、己を支えてくれる存在がどれほど大切であるのかを。
なまえ。君の存在に、私はどれほど救われていることか。それをきっと、君は知るまい。
***
風呂から出るタイミングを見計らったように、テーブルの上には温かい夜食と冷たいルイボスティーが用意されていた。
私が席につこうとしたその時、なまえがちらりと時計を眺めた。時刻はもうすぐ0時になろうとしている。
「あとは自分でやるよ、君は先に休むといい」
「それはダメ」
「どうしてだい? 君だって疲れてるだろ?」
「もう。忘れてるのね」
なにが、と問いかけて、ああ、と納得。そうだ、明日は。
「わかった?」
「うん」
なまえが冷蔵庫からこぶりの瓶を取り出して、中身を自分のグラスに注いだ。赤みがかった炭酸飲料。瓶には、苺のイラストが描かれて。
そしてなまえは、私の隣の椅子に腰掛けた。
こうした場合、普通は向かい合って座るのだろうが、甘え上手のなまえは、たまにこうして隣に座る。
「お誕生日おめでとう」
日付がかわったと同時に、なまえがグラスを掲げた。私も軽くグラスを掲げて、チアーズ、と呟く。続いて差し出されたのは、リボンのかかった小さな箱だ。
「プレゼント」
それは革製のキーケースだった。ファスナー式になっていて、中にカードキーやスマートキーも収納できるタイプのものだった。
「ありがとう。新しいのが欲しいと思っていたんだ」
長年愛用してきたキーケースが壊れてしまい、新調するか修理に出すか迷っていたところだった。まったく、よく見てくれているものだ。
それを嬉しく思うと同時に、下手なことはできないぞと、気を引き締めた。
「あと、この時間のケーキはもたれちゃうだろうから、あしたの夜ね」
「ああ」
きゅっと手を握ってきた彼女の頭をなでてから、できたてのリゾットを一口。トマトペーストとチキンスープがベースの夜食は、優しい味がした。
「おいしいよ。いつもありがとう。毎日夜食まで作るのは大変だろ?」
「ううん。今日は手作りしたけど、冷食やデリを上手く利用することもあるし、そんなでもないよ」
「いや、それでもやっぱり大変だと思うよ。君には本当に感謝してる」
「ねえ、そう言ってもらえると嬉しいけど、いったいどうしたの?」
けげんそうな顔をしたなまえに小さく微笑んで、続ける。
「いや、日々私の為にいろいろしてくれている君に、感謝したいなと思ってさ」
「とっても嬉しいけど、今日はあなたのお誕生日なんだから、それはまた別の日にしてね。今日はわたしに甘えてほしいな」
そう言って、なまえはグラスを口に運んだ。赤みがかった、美しい飲み物。そういえば、なまえは赤くて綺麗なお酒が好きだった。
「それ、綺麗だね。苺のカクテル? いや、泡の感じからするとビールかな?」
「うん。苺のビール。甘くて美味しいよ」
「君は、赤いお酒が好きだよね」
「そうね、あと苺も大好き」
「じゃあさ、次の休みに苺狩りにでも行かないか?」
「このあたりはあったかいから、もう無理なんじゃない」
「山間のファームでは、六月の終わりまでやっているところがあるらしいよ。近くに蛍の名所もあるみたいだから、帰りに寄ってみよう」
嬉しい、と、腕に頬を擦り付けてくるなまえ。
ふわりと漂ってきた苺の香りは、彼女からであったのか、それとも己の肌からであったのか。
「おいおい。それじゃあ食べられないよ」
柔らかな髪に、キスを落とした。そこからもふわりと香る、甘い甘いストロベリー。
えへへ、と、恥ずかしそうに微笑んだ、なまえが愛しい。
「ねえ、誕生日の夜だからさ」
「なに?」
「もうひとつ、プレゼントがほしいな」
続く言葉を予想したのか、なまえの頬が赤くなった。
本当に、君はいつまでも初々しくていい。
「寝るの、遅くなっちゃうよ」
「そうだねぇ。でも、誕生日だから。いいだろ?」
リゾットの最後の一口を飲み込んで、なまえをじっと見つめると、やがて彼女は、恥ずかしそうに目をそらした。
「……俊典さんが、そうしたいなら」
これはなまえの、精一杯の容認の合図。
それ以上の答えを待たず、レモンの香りのルイボスティーを一息に飲み干した。隣に座っていたなまえの脇に手を差し込んで、ひょいと抱き上げる。
「優しくしてね」
「もちろんだよ」
先のことはわからない。けれど、自分に残された日々を、こうして愛する君と過ごしたい。
今日も明日も、明後日も。いや、許される限り、ずっと。
2019.6.10
令和元年 オールマイト誕。
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