花筏

 暮れはじめた川沿いを、ひとり、とぼとぼと歩く。
 このあたりは都内でも有数の桜の名所だ。だから平日の夕方であっても、人出は多い。ことに、カップルが多いのには閉口してしまう。幸せそうな二人連れを見るたびに、心の奥に冷たい何かが降りてゆく。
 思わずトレンチコートの前をかき合わせてしまったのは、冷たい夕方の風のせいばかりではなかった。

 わたしの彼は多忙で、謎の多いひと。しょっちゅう出張と称して東京を離れる。今もそうだ。母校がらみの用事があると言って彼が東京を出て、もう一月近く経つ。
 それだけではなく、デート中でも仕事の連絡がちょくちょく入るし、ごめんの一言で席を外すことも多かった。そのまま戻らないこともまれにある。
 しかも、そんなに忙しいお仕事なのに、彼が何をしているのか、詳しく教えてもらえない。ヒーロー事務所に勤めているとのことであったが、職種はおろか、誰の事務所であるかすら答えてはくれない。おまけに年齢もわからない。

 そんなことを友人の前で漏らしたら、皆から、そんな怪しい男とは別れてしまいなさい、と、ありがたい助言をいただいた。三十才を過ぎた女に、そんな男と付き合っている時間はないと。
 確かに出産を望むなら、そのあたりのことをきちんと考える時期ではあるのだろう。実家の両親――特に母から――結婚に関して、あれこれ言われることもある。だからといって、恋愛と結婚は別だなどと割り切って考えられるほど、ドライでもなく。

 幸いにして、パタンナーとして独立して、もう三年。仕事は軌道にのりつつある。
 今は個性時代、いろんな体型の人がいる。
 シザーハンズという発動時のみ両手がはさみに変化する個性のおかげで、子供のことからはさみを使うのはお手のもの。
 そのおかげかどうかはわからないが、わたしの起こした型紙はひどく評判がいい。ことにヒーロー用のコスチュームに関しては、業界でも一定の評価を得ている。

 ここ最近で一番大きかった仕事は、オールマイトのコスチュームの型紙を引いたことだ。
 これは極秘事項だが、オールマイトは最近ほんの少しだけ痩せてしまったらしい。なので、デザインはそのままに、型紙だけをあらたに起こし直した。といっても、実際採寸させてもらったオールマイトの体躯は充分すぎるほど大きく太く逞しく、わたしを驚愕させるほどであったのだが。
 サポート会社からこの仕事の依頼があったとき、どれだけわたしが感激したか。
 ヒーローのコスチュームは完全オーダーメイドになるので、プレタポルテに比べると、パタンナーの受け取れる金額はそう大きくない。けれどわたしのようなフリーで仕事を受ける者にとっては、有名ヒーローのコスチュームを手がけているというそのことこそが、大きな信用につながる。

 そんなわけで、今は仕事に集中したいというのも、本音のひとつではあった。だからわたしは、彼……八木俊典と別れる気はない。
 第一、彼に対する不満は、多忙なことと謎が多いことくらいなのだ。それ以外は、本当に文句のつけようがないくらいのひと。
 背は高いし、手足も長い。体の大きい人は顔も大きくなりがちだけれど、彼はあの身長にしては小顔のほうだろう。髪も多くて、太陽をはじいてキラキラ光る見事なブロンド。透明感のあるブルーアイズは、まるで宝石を溶かしたかのように綺麗なのだ。立ち居振る舞いはスマートだし、ちょっとした仕草は可愛いし、わたしよりもずっと女子力は高いし、そしてなにより、彼は優しい。

「一人でなにをブツブツ言ってるんだい? なまえ」

背後から声をかけられ、驚いた。振り返るまでもない。これは今の今までわたしがいろいろ考えていた、そのひとの声。

「びっくりした……いつこっちに戻ってきたの?」
「今日。思いがけないところで探していたものが見つかってね」
「さがしもの?」
「うん、だからどうしても君に会いたくてさ」
「だったら連絡くらいちょうだいよ」
「ごめん。でも、ここで偶然会えてよかったよ」
「本当ね」

 と、その時、一陣の風が吹いて満開を過ぎた桜の花びらを一気に散らした。ライトアップされた中で見る桜吹雪は、絵画のような美しさだった。

「綺麗だな。見て」

 俊典が指したのは、川の中だ。水面いっぱいに広がる、淡紅色の花びら。

「花筏ね。素敵」

 不意に、故郷の花筏が脳裏に浮かんだ。
 お城の外濠を埋め尽くす、淡紅色の花びら。わたしはあれ以上の花筏を見たことがない。いつもは暗い緑色の水をたたえるお城の堀が、あの時期だけは、一面ピンク色に変わる。花びらに覆われた水面がお日様の光を受けてきらめくさまは、そしてお月様に優しく照らされてぼんやりと浮かび上がるようすは、とてもとても幻想的だった。
 そして思い出す。毎日、お堀の横を通り通学していた、制服姿のかつての自分。あの頃のわたしの世界は、桜の花のような淡い紅色の希望に満ちていた。

「どうしたの?」
「故郷の桜を思い出したの」
「ああ。たしか近くに、桜の名所があったよね」
「ええ」

 ふるさとは東京より遙か北にある。春の訪れもここよりずっと遅い。
 だが周囲が無彩色に染まる長くつらい冬を経て訪れる春は、それだけでひどく満たされた、幸福感に包まれるものでもあった。

「今度さ……」

 と、俊典が言いかけたその時、彼の携帯端末が鳴った。
 何度も聞いたことがあるこの着信音は、彼の職場からの呼び出しだ。

「……」
「……ごめん」

 白い歯を見せて、ほんの少しだけすまなさそうに、俊典が笑う。
 ちいさくため息をついて、しょうがないわね、とわたしが答える。

「すぐ戻る! 夕飯は一緒に食べよう!」

 そう言って、彼は細い背を向け、走り出した。

 こお、と、また一陣の風が吹いた。
 わたしはふたたびトレンチコートの前をかき合わせる。風に舞う桜の花びらが、なぜかとても悲しく見えた。
 今年の桜は、この強風で終わってしまうだろう。
 桜はとても綺麗だ。だが散り際が悲しくてつらい。
 先ほど俊典と見た桜吹雪はあんなに綺麗に見えたのに、なぜ、同じような光景を目のあたりにして、こんなにも異なる感情を抱いてしまうのだろうか。
 わかっている。それはわたしがさみしいからだ。
 彼と別れるつもりはない。自分の仕事も順調だ。けれど、それでもこうして、いつでも仕事を優先されてしまうことに関して、一抹のさみしさを感じないわけではなかった。

***

 十五分くらいして、俊典は戻ってきた。ぜいぜいと息を切らして、額には汗。
 こんなふうに必死になって戻ってこられると、優しくしたくなるのが人情というもの。

「お疲れ様。もう大丈夫なの?」
「うん、もう解決したから問題ないよ」
「そう。それならよかった」
「ところでさ、さっき言いかけたことだけど」
「なに?」
「GWなんだけど、仕事で君のふるさとに行くんだ。だから、その後合流しない? 君、今年の連休はカレンダー通りだったよね」
「ええ。でも……」
「お城の桜を君と一緒に見たいんだ。いいだろ? 宿は私が取っておくから」

 いいだろ、と、ねだる声は、どこまでも甘く。
 わたしはこのひとの、こういうところにとても弱い。

「……桜越しに見るお城の天守閣は、とても綺麗よ」
「楽しみだな」

 遠回しな肯定の返事に、俊典が満面の笑みを浮かべる。そうして彼は、ひとつの爆弾を投下した。

「あとさ、君のご両親にもご挨拶させてもらってもいいかな」
「え?」
「なまえと真面目な気持ちでつきあってるってこと、伝えられたらと思うんだ」

 わたしよりもずっと年上で、道理も常識も心得ているはずのこのひとが、三十を過ぎた女の親に会うことがどういう意味を持つか、わからないはずはない。
 でもそのことよりも、わたしのことを彼が真面目に考えてくれていたということそのものが、嬉しかった。

「ありがとう」

 俊典の長くてしっかりした腕に自分のそれを絡ませて、川沿いを歩いた。風にさらされ、舞い落ちる桜の花びらは、やっぱりとても美しくて。
 あまりに単純であまりに簡単な、わたしのメンタル。

「実はね、この先のレストランに予約を取ってある」

 俊典が川沿いのレストランの名前をあげた。桜のワインやデザートで話題のお店だ。テラス席から桜が望めることでも、人気が高い。
 まったくこのひとは、リサーチ力と女子力が以上に高いのだから、困ってしまう。

「桜が見たいからテラス席にしちゃったけど、寒いかな?」
「ううん。そんなことない。桜を見ながらのお食事、とても楽しみ」
「それならよかった」

 先ほどよりも気温は下がっているはずなのに、あんなに冷たく感じた風が、不思議と今はあたたかい。
 空にはぼんやり霞む朧月、その手前には淡紅色の桜花。風に舞い散る花びらと、眼下に広がる目黒川。川面には、薄紅色の花筏が広がる。
 それは幸福感に包まれた、春の光景。

2019.4.13
- 43 -
prev / next

戻る
月とうさぎ