電話にするべきか、メッセージを送るべきか、それともレトロな郵便にするか、さんざん悩んで、わたしは最後の方法を選んだ。
まずは宛名に、八木俊典という名を書きこむ。
きわめて非凡なヒーローの、きわめて平凡な本当の名前。
わたしは三年間だけ、八木の姓を名乗っていた。
短いけれど、濃厚だった三年間。
幸せだった二年間と、その後に訪れた地獄のような一年と。
東京から、実家近くのこの街に越してきて、もう五年。
彼と過ごした時間より、離れてからの歳月の方が長くなってしまった事に気づいて、わたしはひとつ、息をつく。
俊典はナンバーワンヒーローだった。
有名ヒーローの家族を狙うヴィランは多い。
殊に、オールマイトには強大な敵がいるという話だった。
詳しいことは教えてもらえなかったが、オールマイトが年齢や本名を公にしていないのも、そこに由来するのだと。
そういった理由から、結婚はすべて秘密裏に行われた。
披露宴はおろか、結婚式も、婚礼写真の一枚すら撮る事もなく。
わたしは港区役所に出向き、互いの手によって必要事項が記載された婚姻届をひとり寂しく提出してきたのだった。
婚姻届をひとりで出しに来るのは、やはり珍しいことだったのだろう。戸籍係のひとがわたしを胡散臭げに眺めたことを、今でもはっきりと覚えている。
「……ごめん。一緒に行ってあげられなくて」
「大丈夫よ」
ひとりで婚姻届を出した日、帰宅するなり俊典はわたしに頭を下げた。
それだけで、区役所で感じた一抹の切なさのようなものは吹き飛んでしまった。
花嫁衣装が着られなくても平気だと言えば嘘になるが、それでも俊典の側にいられるだけで幸せだった。
だが幸せな蜜月は、ある日急に終わりを告げた。
俊典がヴィランとの闘いで大怪我を追ってしまったのだ。呼吸器半壊、胃袋全摘。
すべての手術を終え死の淵から生還した彼は、別人のような姿になっていた。
それでも、その時は生きていてくれて良かったと、心から安堵したものだ。
臓器を失ってしまっても日常生活を送ることはできる。
実際にそうしている人はたくさんいる。
幸いにして貯蓄はたくさんあるし、わたしにも個性をいかした職がある。生活はなんとかなるだろう。落ちついたら空気のいい田舎にでも引っ越して、ふたり静かに暮らしていこう。
そう思っていた。
だが、彼の考えはまったく違った。
「なまえ、私はヒーローをやめないよ」
静かだが確固たる口調で、俊典はそう告げた。
そしてこの瞬間から、わたしの地獄は始まったのだった。
俊典はなかなか完全回復しなかった。それどころか、ますます痩せていくように見えた。前と同じように、いや、それ以上に鍛えているように見えるのに、どんどん筋肉は落ち衰えていく。
血を吐く回数も、量も、日を追うごとに増えていく。
それでも俊典は、オールマイトとして戦いの場に赴くのだ。
行かないでと何度止めても、すまなさそうな顔をしてから、彼はわたしに背を向けた。
「お願いだから、もうヒーロはやめてちょうだい」
「それはできない」
「どうして?」
「それが私に与えられた責務だからだ」
「他にもヒーローはたくさんいるじゃない。どうしてあなたでなければならないの?」
「……すまない」
オールマイトは絶対に己の信念を曲げない。それはわかっていた。
行かないでと泣くたびに、彼が困ることもわかっていた。
けれど言わずにはいられなかった。
あんな身体で戦い続けるあのひとを見ていることが、なによりつらかった。
不安と悲しみは日を追うごとに膨れ上がっていった。
眠れない日々が続き、気持ちはどんどん落ちてゆく。
心療内科に通ってはみたものの、なかなか症状は改善されなかった。
真っ暗な水槽の中に閉じ込められたような気持ちだった。
酸素の足りない狭苦しい水槽の中であえぐ、溺れかけた金魚。
やがてストレスがもたらす閉塞感は、実際の過呼吸発作となってわたしを襲った。
知らせを受け病院にかけつけた俊典は、その時初めて、わたしが心身ともに病んでいることを知ったのだった。
「いいから、君は座っていなさい」
帰宅後、促されるままローマンカウチに身をあずけた。
大きな手で淹れてくれた、温かいミルクティー。
あの時の薫り高いアッサムティーの味を、わたしは生涯忘れないだろう。
温かくまろやかな紅茶を飲みながら決断した、冷たくとがった愛のゆくえと共に。
わたしはミルクティーを干して立ち上がり、窓辺へと向かった。
俊典は何も言わず、わたしの言葉を待っていた。
彼はわたしが何をきりだそうとしているのか、おそらく気づいていただろう。
同時にわたしも、俊典が何を待っているのかを知っていた。
窓の外に輝くのは、いつもと同じようにライトアップされたオレンジ色の東京タワー。
電波塔としての役割を終えても、あのオレンジの建物はこの都市を象徴するもののひとつであり続けるのだろう。
「ねえ、俊典」
「なんだい?」
「引退しても、オールマイトは平和の象徴と呼ばれるかしら?」
「……いや、その二つ名は後進に継承されていくものだろうし、そうであって欲しいと切に願うよ」
「でも……それは今じゃないのよね」
「ああ……まだ時期じゃない」
わたしは、そっと目を閉じた。不思議なことに、涙はまったく出てこなかった。
「ねえ、オールマイト」
ある種の覚悟を持ってわたしが口を開いた。
俊典の表情がさっと陰った。
わたしがヒーローネームで彼を呼ぶ。
それが何を意味するか、わからないようなひとではなかった。
「なまえ……」
「……もう……限界かもしれないわ……」
「……そうか……」
早すぎもせず、遅すぎもしない絶妙のタイミングで、俊典は答えた。
それ以上、彼は何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。
俊典はオールマイトであることをやめない。
わたしは、ヒーローであり続けようとする俊典を見ていることができない。
そこから導き出される答えは、どんなに考えたところでたった一つだ。
破局へと向かうまでの道は長かったが、決まってしまってからは早かった。
唯一揉めたのは、お金のことくらいだろうか。
離婚後のわたしの生活を保障したがった俊典と、慰謝料も財産分与も必要ないと思うわたしと。
「どうしてなにもいらないなんて言うんだ」
「もらえるような立場ではないと思うからよ」
わたしが欲しかったのは、お金でも生活の安定でもなく、知らない誰かのために死をも辞さないオールマイトでもない。
わたしは、わたしのために生きようとしてくれる俊典が欲しかったのだ。
それが手に入らなかったのだから、もう、何もいらないと思った。
「ではせめて家を……」
「いらないわ。ここはわたしが一人で暮らすには広すぎる」
「じゃあ、君の住みたい街に、君に必要な広さの家を用意させてくれ」
「本当に、なにもいらないのよ……」
「頼むから!」
俊典がわたしに対して声を荒らげたのは、後にも先にもこの時だけだ。
「……頼むから……それくらいは……させてくれないか……」
負の感情を人にぶつけることが極端に少ない彼が見せたほんの一瞬の激情と、それに続いた弱々しい声。
それを無碍にできるほど、わたしはずるくもなければ優しくもなく。
結局わたしは俊典の最後の優しさに甘え、実家からほど近い都市に居を構えた。
六本木のマンションから自分の荷物をすべて運び出したその日、離婚届に判を押して俊典と二人で役所へ行った。
皮肉なものだ。婚姻届はひとりで出したのに、離婚届は二人で出すことになるなんて。
「一つ約束してくれないか?」
離婚届を出し終え、役所を出たところで俊典が言った。
「なに?」
「君がいつか、他の誰かと結ばれたら……」
俊典はそこで言葉を切った。絞り出すような声だった。
「私にそれを教えてくれないか?」
「知ってどうするの?」
「どうもしないよ。ただ知りたいだけだ。君が幸せになれたかどうかを」
そういってわたしを見おろした俊典は、笑んでいるのに泣いているようにしか見えなかった。
「……わかったわ……」
俊典は、本当にわたしを愛してくれた。
わたしもまた同じように彼を愛した。
まだこんなにも愛し合っているのに、どうしてわたしたちは別れを選ばなくてはならなかったのだろう。
どうしてもう、共に歩むことができないのだろう。
わたしたちの家を酸素の足りない水槽のようにしてしまったのは、いったいどちらなのだろう。
それはきっと、誰のせいでもないのだ。
俊典はヒーローであり続けようとした。
わたしはそれを見ていることができなくなった。
ただ、それだけのこと。
「どうか元気で……幸せに……」
「あなたもね」
握手をして笑顔で別れた。
それが痩せた彼の姿を見た最後だ。
すっかり萎んでしまった細長い後姿が二つ向こうの角を曲がった時、それまで出なかった涙がぼろぼろこぼれた。
今でも思うことがある。
今でも涙が落ちることがある。
どうしてあのひとは、頑ななまでに知らない誰かを救けようとするのか。
どうしてあのひとは、戦いそして抗い続けるのか。
折れそうに細い身体で、血を吐きながら。
「考えてもしかたないことなのにね……」
はがきを前に、大きな溜息。
もう忘れなければ、新たな一歩を踏み出すために。
わたしは軽く深呼吸をして、最初の一文を書きこんだ。
「再婚します」と。
わたしの二番目の夫になるのは、とても平凡なひとだ。
普通の会社に勤める、普通のサラリーマン。よくあるような個性の持ち主。
それでも今度の夫は、わたしのためにわたしと生きてくれる人。
心を病んでしまうほど好きになることはできないだろうけれど、彼はきっと、わたしを幸せにしてくれるはずだ。
結婚式まであと一月。
テレビのニュースで見た。俊典はこの春から、母校である雄英高校の教師になるという。雄英は、ここからさほど遠くない。
どうしようかさんざん迷って、わたしははがきに式の詳細を書き足した。
***
四月最初の日曜日、わたしは華燭の典を挙げた。高級ホテルと結婚式場と、そして七福神がそれぞれまつられた庭園を有する、巨大な施設だ。
お天気に恵まれた、春らしい朗らかな陽気。少し風はあるけれど、綺麗に咲いた桜の花がわたしたちの門出を祝ってくれているようだ。
ライスシャワーを浴びながら夫となったひとと腕を組み、庭園の階段をのぼった。チャペルから直接庭園に出られることも、この式場の売りの一つ。
最上段から庭園を見おろすと、見事な桜と美しい池が眼下にひろがった。桜で有名な式場であるだけに、花を楽しみにきた人たちの姿もちらほらとうかがえる。
ふと、池から続く細道に視線を走らせて、はっと息を飲んだ。
晴れわたった空色の瞳と、太陽光を受けて輝く金色の髪。
忘れもしない長身痩躯が、庚申塔の前でこちらを見上げ笑んでいる。
俊典はひとりではなかった。わたしと同じくらいの年齢の女性をつれている。
恋人だろうか。それとも新しい妻だろうか。いずれにせよ、彼も新しい恋をしたのだ。
それをさみしく思う気持ちが半分。
幸せそうでよかったと、安堵する気持ちがまた半分。
ああ、でもこれでやっとわたしは俊典を忘れることができる。
新しい人生に踏み出せる。
「どうか幸せに……」
低いけれども優しい声が、聞こえたような気がした。
2016.4.14
長編の「マドンナリリー」と繋がっています(夢主は別です)
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