天王洲アイル
午後十一時三十五分

 運河沿いの遊歩道に吹く、夏の終わりの風は生ぬるい。運河の向こうに聳え立つビル群のあかりは、美しいがどこか物悲しく見えた。

 ボードウォークと呼ばれるこの遊歩道は、デートスポットとしても有名だ。 
 時刻は十一時。終電にはまだ早いが、正子まではあと一時間。なのに歩道には数組のカップルの姿がちらほらとみうけられる。
 彼らはこのまま二人で朝を迎えるのだろうか、それとも別々の帰路につくのだろうか。

 頭上で、桜の葉がゆるい風をうけてかさかさと揺れた。
 この樹が蕾をつけるのはまだまだ先だ。
 薄紅色の花が咲くころ、わたしたちはなにをしているのだろう。すぐ前を歩くひととの関係はどうなっているのだろうか。
 どうもこうもないだろう、とわたしはため息をつく。

 目の前を無言で歩く長身痩躯はわたしの六年越しの片恋の相手であり、雇い主だ。そしてわたしは彼の秘書。
 ボスのスケジュールを調整し、そばにいる時間が長い専属秘書という特別な役職。ゆえに、わたしはボスの真の姿を知っている。
 平和の象徴と謳われるナンバーワンヒーローの、痩せ細った真の姿を。

 けれど、わたしたちの関係はそれだけだ。ビジネス上のパートナー。それ以上でも以下でもない。わたしはオールマイトの真の姿を知っているけれど、彼のプライベートについては何も知らない。

 わたしが入社した六年前から、この関係はかわらない。これから先……ボスが事務所を閉めるまでの残り数か月間も、ただそれだけの関係だろう。

 なのにどうして、わたしは都内有数のデートスポットをボスであるオールマイトと歩いているのだろうか。



「みょうじくん。もしよかったら、今夜、食事でもどうだろうか」

 夕方、オールマイトにそう言われたのがことの始まり。
 痩せ細った姿であっても、常に堂々とこちらを見つめてくるボスが、ためらうように口を開いたのがやけに印象的だった。

「大事な話があるんだ」
「もちろん暇です。大丈夫です」

 わたしはそう即答した。
 公私混同をするような人ではない。プライベートで誘われたことなど、もちろん今まで一度もない。
 そのオールマイトが大事な話があるという。それはいったいなんだろう。オフィスで話せる内容ではないということだろうか。
 期待してはいけないと思いながらも、わたしは胸をときめかせた。

 ところが懐石料理の店で伝えられたその大事な話とやらは、わたしにとって、とても大きな爆弾だった。
 都会の一角とは思えぬ中庭の景観も、美しくしつらえられた床の間の花も、「来春には事務所を畳む予定である」という爆弾を投下された瞬間、それらすべてが色褪せた。

「その後はどうなさるおつもりですか。引退をお考えなのでしょうか」
「いや……母校の教師になるつもりだ。まだ内々の話だけどね」

 わたしは絶望的な気分になった。
 秘書という立場であったからこそ、いの一番に知らされた情報。でもこんな悲しい話は、できうるならばギリギリまで知りたくなかった。
 オールマイトの母校は国立雄英高校だ。ということは、来年の春、彼は東京を離れてしまう。わたしとオールマイトの接点は、完全になくなる。



「みょうじくん」

 ふれあい橋が正面に見える手摺の所で、オールマイトが立ち止まった。
 なんでしょう、とわたしはオールマイトを見上げる。
  
「いきなりあんな話をして悪かったね」
「いえ……少し驚きはしましたが、大丈夫です」
「スタッフの就職先の面倒はきちんと見るつもりだよ」
「……ありがとうございます」
「君はどうしたい?」
「はい?」
「君はたしか、実家も東京だったよね。評判がよくてご実家から近いところにあるヒーロー事務所に、直筆で紹介状を書こうか。それとも……」

 それとも、と告げたまま、オールマイトが口を閉ざした。
 おそらく「希望があるならきくよ」と続けるつもりだったのだろう。六年も一緒にいたのだ。彼の言葉くらい予測できる。
 いつものわたしならば、オールマイトの言葉を予測してすぐに返事をしただろう。
 けれど、とてもではないが今はそんな気分にはなれない。

 オールマイトの言葉を待つ振りをしながら、下を向いた。
 平和の象徴が手ずから書いた紹介状ほど、この業界の再就職において心強いものはないだろうけれど。

 わたしの希望は、公人としてのあなたではなく、私人としてのあなたの専属になることです。
 いきなりそう言ったら、このひとはどんな顔をするだろうか。

 しかし、次にオールマイトの口から出た言葉は、まったく思いもよらないものだった。

「食事はどうだった?」

 わたしは少々戸惑った。こういう脈絡のない会話は、まったくオールマイトらしくない。
 今、話してしていたのは、わたしの再就職についてではなかっただろうか。

「……美味しかったです。とても」
「そうか。なら良かったよ」

 オールマイトが静かに答えて、また沈黙が訪れる。わたしたちは無言のまま、互いの顔ではなく、ライトアップされたふれあい橋をただ眺めつづけた。
 彼は真の姿であってもやはり大きい。聳え立つような長身と、やや持て余し気味に見える、細くて長い手足。
 マッスルフォームの時に立ち上がっているこの前髪は、真の姿の時はへにゃりと力なく下を向く。 わたしは、それがひいでた額にかかるさまを見るのが好きだった。
 落ち窪んだ眼窩の奥で強い光を宿しているブルーアイズに、自分の姿が映ることが誇らしかった。

 ああ、いやだ。まだ「その日」が来たわけではないのに、オールマイトとの日々が過去形になりはじめている。再就職の話はこれで終わりにしてほしい、「その日」が来ることなんか考えたくない。

「さっきの話に戻るけど……」

 けれどやはり現実はわたしが思うより残酷で、オールマイトが気まずそうに口をひらいた。

「再就職にあたって、希望はあるかい?」
「わたしは、もうヒーロー事務所では働きたくないです」
「どうしてだい? うちの待遇はヒーロー事務所全体のイメージをさげてしまうほど悪かった?」
「違います……わたしにとってのヒーローは、オールマイトさんだけですから」

 思い切ってわたしはそう告げた。
 ひゅっ、と、オールマイト息をつめたのがわかった。

「みょうじくん。今のはどういう意味かな?」
「他のひとの隣に立っている自分が、想像できません」

 静かに問われて、下を向いたままきわめて曖昧な返答をした。
 このひとは大人だ。きっと今のやりとりなど、聞き流してくれることだろう。

 わたしたちの脇を、数組のカップルが通り過ぎてゆく。彼らはどこに向かうのだろうか。
 互いを包む揺りかごに? それとも別々の家に?

 運河から吹く風は変わらずなまぬるく、向こうに見えるビル群の夜景は、やはりどこか物悲しい。どうしてだろう。あんなに綺麗なあかりなのに。
 
「私もだ」

 心地よく響く低音から放たれた意外な言葉に、わたしは思わずオールマイトを見上げた。コランダムの輝きを有するブルーアイズが、静かにわたしを見つめている。
 青い瞳の中に映っている、わたしの顔。
 
「私も、君のいない日々が想像できない。雄英の教師になったとしても、君にそばにいてほしい」

 わたしとオールマイトと、たがいの視線は絡み続ける。ばくばくと、心臓が破裂しそうなくらい大きな音をたてている。心音に負けそうなふるえる声で、わたしは答えた。

「……それは秘書としてのわたしを、ということですか」
「ヒーローを続けるとはいえ、一教師に秘書は必要ないよ」

 静かな、少し掠れた低い声。

「先ほどの再就職先の話に戻るけどね、就職先の希望がなければ、私のところに来る気はないかい? 条件は一生私のそばにいることと、みょうじから八木に名前を変えてもらうこと。他は、応相談」

 どうしよう、声が出ない。
 わたしは返答のかわりにそっとオールマイトの手をとった。痩せた姿になっても、彼の手は大きくて分厚い。
 たくさんの人たちを救けてきたその手が、少し湿っていることに気がついた。オールマイトも緊張していたのだろうか。

 こくりと小さくとうなずくと、ありがとう、という低い声と共に、額に乾いた唇が落とされた。
 
 運河を渡る風は、先ほどまでと同様に生ぬるい。だが、先ほどまであれほど物悲しく見えた夜景が、嘘のように優しく見える。
 時刻は十一時三十五分。終電まではまだ遠いが、正子まではあと少し。

2016.7.6

R.R様のイラストから生まれたお話>

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