バスを降りたとたん襲ってきた熱波に、思わずそう一人ごちた。
今日は久方ぶりの和装での外出。
紺色の紗のきものに白地の紗献上をあわせた。
紗はうすぎぬという別名通り、透け感がある。透ける布地と紺と白の色合い。一見すると涼やかにうつるコーディネートではあるが、どんなに見た目を取り繕っても、暑いものはやっぱり暑い
だからこそ表情だけは涼しげに装う。凛と咲くあやめの花のように、背筋をのばして。
盛夏の和装には、それなりの気合が必要だ。
殺人的な日差しを感じないような顔をしながら、すぐ目の前の建物の入り口をくぐった。そのまま、エレベーターへ乗り込む。
目的の場所は、11階のスカイロビー。
「なまえ!」
待ち合わせ場所に着くなり、柔らかい低音がなまえを呼んだ。
身体にあわない大きさのスーツを着た男の名は、八木俊典。またの名をオールマイト。
けれどこの姿でいる時に、彼が我が国随一の英雄であることに気づく人は誰もいない。
人があふれるこの街で、それを知っているのはわたしだけ。そう思うたび、なまえは喜びにうち震える。
あまり美しくない、その気持ちの名は優越感。
そんななまえのつまらない想いに気づかず、俊典は嬉しそうに笑った。
「ああ。たまにこうして外で待ち合わせるのも新鮮でいいね」
「そうね」
「それにその着物、とても似合ってるよ」
「ありがとう」
「すごいセクシーだ」
長い背を大きくかがめて、俊典が耳元でささやいた。
ん、と声をあげてなまえが小さく身じろぎすると、俊典は片方の口角だけをついと上げ、静かに笑んだ。
「もう……わたしがそこ弱いの知ってるくせに」
やわらかな抗議に、俊典が軽く目を細める。獲物を狙い定めた狩人のように。狩人は低く低く、またささやく。
「これから、どうする?」
最初の約束では、このまま二階上の劇場に上がり、観劇の予定だった。
だから、どうするもこうするもないだろう。ないはずだ。
けれど色を含んだ低音に、甘い欲が体の中をじわじわと侵食していくのがわかる。自分はこれに抗えるだろうかと、なまえは小さく息をついた。
これではまるで、仕掛けられた罠から逃げられないうさぎのようだ。
ただ、この罠は絶対に逃げられない鉄の檻でも、身を傷つけるワイヤーでもない。うすぎぬのような柔らかさの、性愛という名の甘美なもの。
「なまえ?」
俊典に答えるよう促され、なまえは外の景色を見やった。
ビル群の上に降り注ぐのは、残酷なまでに強い夏の日差し。
スカイロビーの名にふさわしい地上11階の広間から見下ろす、都会のビル群と人の群れ。軽い眩暈をおぼえて、なまえの体がぐらりと揺れる。
大きな手が素早くなまえの腰に回されて、転倒を防いでくれた。帯の上からだというのに、触れられている部分が、やけに熱い。
「……喉が渇いたわ」
「じゃあ、まずはそこのカフェでお茶でも飲もう。で、そのあとは」
「そのあとは?」
期待に答えた声がうわずらせると、支えられていた手にぐっと力が込められた。
ぞくり。
またしても、欲がなまえの体を侵食していく。
毎日顔をつきあわせているひとなのに、どうしてこんなにドキドキさせられているのだろう。
俊典が時折見せる「雄」の部分は、女のなかの欲を瞬時にとらえ、強く揺さぶる。
「予定通り、観劇だ」
煽るだけ煽って放置する。俊典はこういう意地悪をたまにする。ここでおねだりをすればご褒美をもらえるだろうが、今はそうはしたくない。
うすぎぬが、欲に溺れかけたなまえの体を覆っていく。
ひとつ小さな息をつき、なんでもない態を装いながら、なまえは静かに頷いた。
***
舞台は素晴らしかった。歌も踊りも、演出も。
互いにご機嫌のまま、劇場から三駅先のビストロで少し早めの夕飯を食べ、帰路についた。
「しかし、和服姿の君は、抗いがたい魅力があるよ」
エレベーターを待ちながら、俊典が笑う。
背筋を凛と伸ばしたまま、なまえもにこりと笑みを返した。
「んっ……」
あられもない声をあげてしまったのは、エレベーターに乗り込んだと同時に、うなじに歯を立てられたからだ。他に誰もいないとはいえ、天井には監視カメラがある。
俊典は本当に大胆だ。
「監視カメラにうつってしまうわ」
「これくらいならかまわないだろ」
早く君が欲しいよ、と、俊典が耳元でささやく。
「あなた、観劇中も食事中も、そんなそぶりは見せなかったじゃない」
「君こそ、ずっと涼しげな顔だったじゃないか。観劇前はあんなに乗り気だったくせに」
「だって、我慢した方が、あとからの快感がずっと大きくなるんだもの」
「君は清楚な顔をして、本当に性に貧欲だな」
「そういう女は苦手?」
「いや。たまらなく好きだよ」
これから始まるのは、冷房の効いた涼しい部屋で、互いの粘膜を擦りあう淫靡な時間。甘い期待に胸が鳴る。
ここ最近、お互い多忙で、そういうことから遠ざかっていた。
いや、多忙であっても一緒に暮らし始めたばかりの頃は、なまえが困ってしまうくらい激しく求められたものだ。
どんなに愛があっても、人は飽きる生き物。
互いの間に、慣れからくる倦怠が忍び寄っていないとどうして言えよう。
だから、なまえはわざわざ外で待ち合わせをし、俊典の好きな和服を選んだ。彼はなまえが和服を着るととても喜ぶ。
動き方に色気が出る、とか、普段隠れているうなじが見えるのがいいんだ、とか、男性目線でしかわからない魅力のようなものがあるらしい。
空調の効いた都会の劇場は、和装でいても不自然ではない場所の一つ。だから。
すべては計算。
うすぎぬの罠にかかったうさぎは、いったいどちらであったのか。
2016.8.4
15万打企画「五日連続更新」で書いたお話
- 24 -