東京に空はない、と言ったのは、はたして誰であったのか。ビルに阻まれ、確かに狭く感じるけれど、都会にも田舎にも、等しく空はあると言うのに。
こんな空を見ていると、思い出す人がいる。それは背の高い少年だ。
彼は晴れわたった空と同じ色の瞳をし、燃えあがる太陽と同じ色の髪をしていた。
***
土手の上から見おろす、河川の流れは緩やかだった。空気の爽やかな、人通りの殆どない早朝五時の河川敷。
けれどわたしは、こんな時間に散歩に出た自分の愚かさを後悔し始めていた。
後ろから、怪しい男がついてくる。歩を進めながら、さりげなく周囲を見渡した。絶望的なほどひとけがない。
走って逃げたところで、大人の男相手ではすぐに追いつかれてしまうだろう。その証拠に、先ほどからかなり早足で歩き続けているのに、じりじりと距離を詰められている。
向こうはいつでもわたしをとらえられると思っているから、すぐに手を出さないのだ。怯えている姿を面白がっているのかもしれない。
心臓がドラムロールのように鳴り続けている。
せめて犬の散歩をしている人にでも出会えればいいのに。
泣きそうになりながら、――いや、実際泣いていたのかもしれない――それでもひたすら歩き続けた。
幼い頃から何度も歩いているこの河川敷を、こんなに長く感じたのははじめてだ。
とうとう、男の吐息が髪にかかった。それほど距離をつめられたのだ。
どうしよう。怖くて声も出ない。
だが、その瞬間、救世主が現れた。
「おい、おまえ! 何をしてる?!」
土手の下で怒声を上げたのは、首からタオルをさげた、ジャージ姿の背の高い青年だった。
背後の男がびくりとしたのがわかった。
青年もそれで男の意図を確信したらしく、一気に土手を駆けのぼってくる。男は踵をかえして逃げだした。
あっという間に土手の上まで来た青年は、一度足をとめ、わたしに向き直った。
「君、大丈夫か」
だいじょうぶ、と応えるかわりに青年のシャツの裾を掴んだ。一人にされたくなかったからだ。
「ちょ……君、大丈夫なら放して。逃げられてしまう」
その声に、わたしはますます強く青年のシャツを握りしめ、わっと声をあげて泣き出した。
涙と鼻水をまき散らしながら、おんおんと声をあげて泣き続けるわたしをみて、青年は男を追うことを断念したようだった。
ため息のような音が聞こえ、目の前に白いタオルが差し出される。
「このあたりはあまり治安がよくないんだ。こんな早い時間に、女の子が一人で出歩いては危ないんだよ」
青年の声は、低いがやや幼くきこえた。慌てて顔をあげると、晴れわたった空と同じ色の瞳とぶつかった。
背の高さから大人なのかと勘違いしたが、近くで見るとずいぶん若い。
「ありがとう……」
タオルで涙を拭きながら礼を言うと、青年、いや少年は満面の笑みを見せた。笑うとますます幼く見える。
「どうしてこんな時間に、こんなところをうろついていたんだい?」
少年がわたしにたずねた。
わたしは淡いブルーのシャンブレ―のワンピースを身に着けていた。足元は白いサンダル。ランニングに、と言うには、さすがに無理がある。
「わたしね、家出してきたの」
「いえで??」
少年が頓狂な声をあげ、次に真面目な顔つきになった。
「あっ、誤解しないでね。家出っていっても、転がり込んだ先はおばあちゃんの家だから」
「……どうして家出なんかしたんだい?」
「進路のことで親と意見が合わなかったの。わたしね、中学を卒業したらすぐに専門学校に進んで料理を勉強したいの。でも親は進学しろって言うのよ」
わたしの個性は『絶対味覚』
一度口にすれば、使われている材料を当てるだけでなく、塩の一粒、酢の一滴の差にも気づくことができる。そのせいだろうか、昔から料理をするのが好きだった。
勉強が嫌いなわけではなかったが、料理人の道は男性が主体だ。だから少しでも早く、プロの世界に飛び込んで腕を磨きたい。高校も大学も、全ては無駄だ。
けれど親は、視野を広げるためにも、その道で挫折した時のためにも、高校だけは出ておけという。
「うーん」
少年は少し考え込むような顔をして、土手の芝の上に腰を掛けた。隣に座れと言うように手招きされて、彼の隣りに腰を下ろした。
朝のおひさまにてらされた黄金の髪が、キラキラ光ってとても綺麗だ。
「俺も中学生だからさ、君の言うことも、ご両親の言うことも、なんかわかるよ。でも自分の意見を通したいなら、逃げないでちゃんと話し合わないと」
実に正論。昨夜、祖母にも同じことを言われた。同世代だというのに、ずいぶんしっかりした子だと思った。
しかし中学生であるのなら、彼はどうしてこんな早くから、こんなところにいるのだろう。
「あなたこそ、中学生がこんなところでなにしてるのよ」
「俺? 俺はね、ヒーローを目指してるから、勉強だけでなく身体も鍛えないといけないんだよ。だから毎朝走ってるんだ」
「いつもこんな時間から頑張ってるの?」
「うん」
「ロードワークの後は、筋トレをしてるよ。とにかく体をつくらないと」
「すごいね」
「夢を叶えるためだからね。なんでもするさ」
「で、あなたにはどんな個性があるの?」
すると、少年の顔が急に歪んだ。そのまま彼が泣きだしてしまうのではないか、と焦ってしまうほどに。
もしかして、きいてはいけないことをきいてしまったのだろうか。
けれど、ヒーローを目指すような子は、みんな秀でた個性を持っている。自分にはこんな個性がある、こんな凄い技がある、と見せたがる子が多いものだ。
それなのに、どうして彼は。
「……秘密」
少年は泣きだす代わりにそう答えて、小さく笑った。
自分の中の憤りや悲しみ、そういった負の感情をすべて飲み込んだかのような、どこか悲しい笑みだった。
この時、わたしは直感した。
もしかしたらこの子は、秀でた個性を持ってはいないのかもしれないと。
それでも夢をあきらめず、ひとりあがき続けているのだ。
そう思い至った時、わたしの中を、熱い何かが駆け抜けた。
***
晴れわたった空色の瞳をした少年とは、ただそれだけの、ごくごく短い関わりだった。わたしは彼の名前も知らない。
ただ、彼には会いたくて、理由をつけては祖母の家に泊まり、自転車で何度か早朝の河川敷をおとずれた。けれど、その後、彼に合うことは二度となかった。
ヒーローになる道を諦め普通科に進学したのか、ヒーロー科になんとか潜り込めたのか、それすらもわからない。
だが、どんな道を進んだとしても、彼はきっと、その道で何かを成していることだろう。
わたしはそう思う。そう信じたい。
たったあれだけの短い時間で、わたしの心に、大きななにかを残した彼だもの。
強くなってきた西日に気づいて、ちらりと時計をながめる。
そろそろ癒しの時間も終わり。向かわなければ、わたしもわたしの戦場へ。
わたしは彼との出会いの後、調理師免許が取れる食物科のある高校にすすみ、卒業後はイタリアンの世界へ飛び込んだ。
男性主体のこの世界は、想像以上に女、ことに小娘にはつらいものだった。ただでさえ、体力では男性には大きく劣る。まさにこの世界は、わたしにとって戦場だった。
だが、どんなにつらいことがあっても、絶対あきらめるものかと思った。わたしは「絶対味覚」という、この業界で生きていくにはもっとも有利な個性に恵まれたのだ。
負けたりしたら、彼の見せた、あの哀しい笑顔に恥ずかしい。
セクハラとパワハラの海をざぶざぶ泳いで、やっとリストランテのオーナーシェフの座を手に入れた。
男性上位のこの世界でここまでくるのは、並大抵のことではなかった。
「さあ、はじめるわよ」
こうして自分に気合を入れるたび思い浮かぶのは、晴れわたった空色の瞳と、燃え盛る太陽のような輝きを有する髪。
蒼天の君の面影を胸に、わたしは今日も、自分の戦場へと向かう。
2016.8.7
15万打企画「五日連続更新」で書いたお話
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