蒼天の君

 攻撃的な真夏の陽光が、アスファルトをじりじりと焦がしていく、八月の午後。大地にうつる影はどこまでも濃く、見上げた空は透き通るように蒼い。
 東京に空はない、と言ったのは、はたして誰であったのか。ビルに阻まれ、確かに狭く感じるけれど、都会にも田舎にも、等しく空はあると言うのに。

 こんな空を見ていると、思い出す人がいる。それは背の高い少年だ。
 彼は晴れわたった空と同じ色の瞳をし、燃えあがる太陽と同じ色の髪をしていた。

***

 土手の上から見おろす、河川の流れは緩やかだった。空気の爽やかな、人通りの殆どない早朝五時の河川敷。
 けれどわたしは、こんな時間に散歩に出た自分の愚かさを後悔し始めていた。

 後ろから、怪しい男がついてくる。歩を進めながら、さりげなく周囲を見渡した。絶望的なほどひとけがない。
 走って逃げたところで、大人の男相手ではすぐに追いつかれてしまうだろう。その証拠に、先ほどからかなり早足で歩き続けているのに、じりじりと距離を詰められている。
 向こうはいつでもわたしをとらえられると思っているから、すぐに手を出さないのだ。怯えている姿を面白がっているのかもしれない。
 心臓がドラムロールのように鳴り続けている。
 せめて犬の散歩をしている人にでも出会えればいいのに。

 泣きそうになりながら、――いや、実際泣いていたのかもしれない――それでもひたすら歩き続けた。
 幼い頃から何度も歩いているこの河川敷を、こんなに長く感じたのははじめてだ。
 とうとう、男の吐息が髪にかかった。それほど距離をつめられたのだ。
 どうしよう。怖くて声も出ない。

 だが、その瞬間、救世主が現れた。

「おい、おまえ! 何をしてる?!」

 土手の下で怒声を上げたのは、首からタオルをさげた、ジャージ姿の背の高い青年だった。
 背後の男がびくりとしたのがわかった。
 青年もそれで男の意図を確信したらしく、一気に土手を駆けのぼってくる。男は踵をかえして逃げだした。

 あっという間に土手の上まで来た青年は、一度足をとめ、わたしに向き直った。

「君、大丈夫か」

 だいじょうぶ、と応えるかわりに青年のシャツの裾を掴んだ。一人にされたくなかったからだ。

「ちょ……君、大丈夫なら放して。逃げられてしまう」

 その声に、わたしはますます強く青年のシャツを握りしめ、わっと声をあげて泣き出した。

 涙と鼻水をまき散らしながら、おんおんと声をあげて泣き続けるわたしをみて、青年は男を追うことを断念したようだった。
 ため息のような音が聞こえ、目の前に白いタオルが差し出される。

「このあたりはあまり治安がよくないんだ。こんな早い時間に、女の子が一人で出歩いては危ないんだよ」

 青年の声は、低いがやや幼くきこえた。慌てて顔をあげると、晴れわたった空と同じ色の瞳とぶつかった。
 背の高さから大人なのかと勘違いしたが、近くで見るとずいぶん若い。

「ありがとう……」

 タオルで涙を拭きながら礼を言うと、青年、いや少年は満面の笑みを見せた。笑うとますます幼く見える。

「どうしてこんな時間に、こんなところをうろついていたんだい?」

 少年がわたしにたずねた。
 わたしは淡いブルーのシャンブレ―のワンピースを身に着けていた。足元は白いサンダル。ランニングに、と言うには、さすがに無理がある。

「わたしね、家出してきたの」
「いえで??」

 少年が頓狂な声をあげ、次に真面目な顔つきになった。

「あっ、誤解しないでね。家出っていっても、転がり込んだ先はおばあちゃんの家だから」
「……どうして家出なんかしたんだい?」
「進路のことで親と意見が合わなかったの。わたしね、中学を卒業したらすぐに専門学校に進んで料理を勉強したいの。でも親は進学しろって言うのよ」

 わたしの個性は『絶対味覚』
 一度口にすれば、使われている材料を当てるだけでなく、塩の一粒、酢の一滴の差にも気づくことができる。そのせいだろうか、昔から料理をするのが好きだった。
 勉強が嫌いなわけではなかったが、料理人の道は男性が主体だ。だから少しでも早く、プロの世界に飛び込んで腕を磨きたい。高校も大学も、全ては無駄だ。
 けれど親は、視野を広げるためにも、その道で挫折した時のためにも、高校だけは出ておけという。
 
「うーん」
 
 少年は少し考え込むような顔をして、土手の芝の上に腰を掛けた。隣に座れと言うように手招きされて、彼の隣りに腰を下ろした。
 朝のおひさまにてらされた黄金の髪が、キラキラ光ってとても綺麗だ。

「俺も中学生だからさ、君の言うことも、ご両親の言うことも、なんかわかるよ。でも自分の意見を通したいなら、逃げないでちゃんと話し合わないと」

 実に正論。昨夜、祖母にも同じことを言われた。同世代だというのに、ずいぶんしっかりした子だと思った。
 しかし中学生であるのなら、彼はどうしてこんな早くから、こんなところにいるのだろう。

「あなたこそ、中学生がこんなところでなにしてるのよ」
「俺? 俺はね、ヒーローを目指してるから、勉強だけでなく身体も鍛えないといけないんだよ。だから毎朝走ってるんだ」
「いつもこんな時間から頑張ってるの?」
「うん」
「ロードワークの後は、筋トレをしてるよ。とにかく体をつくらないと」
「すごいね」
「夢を叶えるためだからね。なんでもするさ」
「で、あなたにはどんな個性があるの?」

 すると、少年の顔が急に歪んだ。そのまま彼が泣きだしてしまうのではないか、と焦ってしまうほどに。

 もしかして、きいてはいけないことをきいてしまったのだろうか。
 けれど、ヒーローを目指すような子は、みんな秀でた個性を持っている。自分にはこんな個性がある、こんな凄い技がある、と見せたがる子が多いものだ。
 それなのに、どうして彼は。

「……秘密」

 少年は泣きだす代わりにそう答えて、小さく笑った。
 自分の中の憤りや悲しみ、そういった負の感情をすべて飲み込んだかのような、どこか悲しい笑みだった。
 
 この時、わたしは直感した。
 もしかしたらこの子は、秀でた個性を持ってはいないのかもしれないと。
 それでも夢をあきらめず、ひとりあがき続けているのだ。
 そう思い至った時、わたしの中を、熱い何かが駆け抜けた。

***

 晴れわたった空色の瞳をした少年とは、ただそれだけの、ごくごく短い関わりだった。わたしは彼の名前も知らない。
 ただ、彼には会いたくて、理由をつけては祖母の家に泊まり、自転車で何度か早朝の河川敷をおとずれた。けれど、その後、彼に合うことは二度となかった。
 ヒーローになる道を諦め普通科に進学したのか、ヒーロー科になんとか潜り込めたのか、それすらもわからない。
 だが、どんな道を進んだとしても、彼はきっと、その道で何かを成していることだろう。
 わたしはそう思う。そう信じたい。

 たったあれだけの短い時間で、わたしの心に、大きななにかを残した彼だもの。

 強くなってきた西日に気づいて、ちらりと時計をながめる。
 そろそろ癒しの時間も終わり。向かわなければ、わたしもわたしの戦場へ。
 
 わたしは彼との出会いの後、調理師免許が取れる食物科のある高校にすすみ、卒業後はイタリアンの世界へ飛び込んだ。
 男性主体のこの世界は、想像以上に女、ことに小娘にはつらいものだった。ただでさえ、体力では男性には大きく劣る。まさにこの世界は、わたしにとって戦場だった。
 だが、どんなにつらいことがあっても、絶対あきらめるものかと思った。わたしは「絶対味覚」という、この業界で生きていくにはもっとも有利な個性に恵まれたのだ。
 負けたりしたら、彼の見せた、あの哀しい笑顔に恥ずかしい。
 セクハラとパワハラの海をざぶざぶ泳いで、やっとリストランテのオーナーシェフの座を手に入れた。
 男性上位のこの世界でここまでくるのは、並大抵のことではなかった。

「さあ、はじめるわよ」

 こうして自分に気合を入れるたび思い浮かぶのは、晴れわたった空色の瞳と、燃え盛る太陽のような輝きを有する髪。
 蒼天の君の面影を胸に、わたしは今日も、自分の戦場へと向かう。

2016.8.7

15万打企画「五日連続更新」で書いたお話

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