冷気が肺を刺激しないよう気をつけながら、私は一つ息をつく。吐く息は当然のように白かった。
江戸末期に開港した歴史ある港の埠頭で、私たちは新たなる年が始まるのを待っている。
もうすぐ日付がかわろうとする時間なのに、埠頭に集まる人は減るどころか増える一方だ。
「寒いね」
「そうだね。こんな冬の夜に連れだしたりしてすまない」
「ううん。わたしも一度きいてみたかったの。それにほら、寒くてもこうしていればあったかいよ」
なまえが私に抱きついた。その細い肩に手をまわして、来るべきそのときをふたりただ待つ。
「……本当に、こうしているとあたたかいな」
同じ場所で同じように一人立っていたあの時とは、ずいぶんな差だ。五年前の大晦日、私は今と同じようにこの場所を訪れた。
除夜の汽笛をきくために。
太く長く鳴き渡る汽笛の音は、命尽きる寸前の猛獣の咆哮を思わせ、とても切なく胸に響いた。
あの時の私は、ヒーローとしての終焉へのカウントダウンが始まってしまった悲しみと、去りゆく年を重ねていたように思う。
「ね。以前は年明けと共に花火も打ち上げられたのでしょ?」
「ああ、そうだね。あの遊園地から花火が上がったよ。今はもうやらないみたいだけどね」
正面の大観覧車の方向を指して応えた。あの観覧車は、四半世紀ほど前に行われた万博のパビリオンの一つだった。
世界最大の、時計機能つき大観覧車。そこから眺める大都市の夜景は、きっと見事なものだろう。
そういえば、久しく観覧車というものに乗っていない。あの観覧車は無理かもしれないが、お台場あたりならいつでも行ける。次のオフにでもなまえと出かけてみようか。きっと喜んでくれるだろう。
「来年の大晦日もこうしてふたりで迎えたいね」
「たぶん大丈夫じゃないかな」
ああ本当に、五年前とはぜんぜん違う。
なまえ、君が隣にいてくれるただそれだけのことなのに、こんなにも心が安らかだ。
来春、私は東京を離れ、母校である雄英高校の教師となる。
それを話した時、君は一筋の迷いも見せず、私についていくと言ってくれたね。あの時の私がどれだけ嬉しかったか、君は知るまい。
「どうしたの?」
「ん。なんでもないよ。それよりさ、そろそろ年越しのカウントダウンがはじまるみたいだ」
考えていたことを見透かされたようで、なんだか気恥ずかしい。ついつい笑ってごまかした。
だがカウントダウンが始まったのは本当だ。20からはじまり、19、18、と皆がそろって秒読みを始める。これはこれでちょっと不思議な光景だよな、と、こっそり思った。
午前零時を迎えた瞬間、大観覧車を彩るあかりが七色に変化した。
それを合図に、港に停泊中の船が次々と汽笛を鳴らしてゆく。小さな船の優しい音や、巨大船の獣の咆哮のような低く重い音がかさなってゆく。
最後の汽笛が夜の闇の中へと溶けて消えた時、なまえがあけましておめでとう、と囁いた。
ハッピーニューイヤー、と返しながら、冷えてしまったやわらかい頬に唇を落とす。
ああ、本当にささやかだけれど、きっと人は、このささやかな温かさを幸せと呼ぶのだろう。
私が自分に課した生きざまは、他者から見たら過酷なものかもしれない。けれど、それでも私は幸せだ。
来年もこうして共に年を越せるようにと、心の中で乙女のように願う私を見上げて、ふふふとなまえがちいさく笑った。
2016.12.31
2016 大晦日
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