キャビネット

 こち、こち、こち、と室内に響く、秒針の音。

 時刻は午前零時。俊典さんは、まだ帰らない。
 彼と暮らしてそろそろ三か月。その間。ずっとこんなだ。
 ヒーローには、年末も年始もない。それどころか、事件が増える年の瀬は、仕事が増える。
 世の中は、オールマイトを必要としている。平和の象徴たるオールマイトを独占することはできない。けれど、ただの人でいるときの俊典さんと、添うことはできる。
 そう思ってヒーローである彼と生きることを選んだのはわたしなのだから、不満を持ってはいけない。わかってはいる。
 けれど今日――零時を過ぎてしまったのですでに昨日だ――は、ホワイトデー。日本だけの風習ではあるが、こうしたイベントの日に一人にされるのは、やっぱり少し、さみしかった。

「……冷えてきたかな」

 急な冷えを感じて、お気に入りのパジャマの上から、スカラップレースがあしらわれたガウンを羽織った。
 このかわいいガウンは、俊典さんと一緒にデパートで選んだものだ。よくある白ではなく淡いラベンダーを勧めてくれたのも、彼だった。

「でも、あんまり見せる機会はないけどね」

 と、ひとりごち、広いばかりの室内を見渡した。
 リビングダイニングとキッチンが一続きになった、ゆとりある空間。
 ダイニングには重厚なテーブルセット、木の質感を生かした温かみのあるリビングには、モダンなデザインのローテーブルと、皮張りのソファ。壁際には大きなテレビモニターと、高低さまざまな、いくつかの間接照明。コーナーに、猫足のキャビネット。
 俊典さんとわたしで作った、ふたりのための空間。

 わたしお気に入りのキャビネットの中には、さまざまな形のグラス類が収納されている。その上には、香水瓶がひとつ。
 ロゴのみが印刷された透明なガラス容器に黒い蓋の、シンプルなデザイン。だがパッケージの潔さに相反するように、その香りは濃く、癖がある。
 彼の愛用香水を知った時、俊典さんには不似合いな名前だなと、正直思った。その濃厚な香り、そのものも。
 けれど今ではもう、この香水といえば俊典さんだ。わたしと同世代の若い男の子では使いこなせない、危険さと優雅さを兼ね備えた大人の男の香り。

 キャビネットに手を伸ばし、蓋を開けて鼻を近づけた。
 鼻腔をくすぐるのは、シナモン入りのブランデーケーキのような、甘苦い彼の香り。
 胸の奥が、きゅんと疼いた。

「……お茶でも淹れて飲もうかな……」

 わたしは寂しさを紛らわせるためにそうひとりごち、立ち上がった。と、その瞬間、玄関の方角から、扉が開く音がした。

「遅くなってごめん」

 リビングの扉を開けて入ってきたのは、まぎれもなく、わたしが待ちわびていた人物で。
 おかえりなさい、と告げたわたしに、うん、と彼がにっこり笑った。

 上着を脱いでハンガーに掛ける、その背中。ネクタイを緩める、大きな手。笑みをたたえる、やや乾燥した肉の薄い頬。
 このひとのすべてが大好きだ、と、密かに思った。

「なまえ」
「はい?」
「バレンタインのお返し」

 ことりとテーブルに置かれたのは、白いリボンがかかった、白い紙袋だった。
 中に入っていたのは、ピンク色の香水瓶。

「君、前にこの香り好きだって言ってたよね」
「うん。ありがとう。すごく嬉しい」

 よかった、と、俊典さんがまた笑う。

「これね、ロールオンタイプなんだってさ。スプレーだと量の調節が難しいって言ってただろ? これなら使いやすいんじゃないかと思ってさ」

 世界を支える英雄が、自分がもらした小さな言葉を覚えていてくれたのかと思うと、ただただ嬉しい。

「ありがとう……俊典さん、大好き」
「私もだよ」

 と、耳元に低音が流し込まれる。
 次の瞬間、ぐっと抱き寄せられ、優しいキスが降ってきた。

「さっそく、つけてみようか」

 大きな手が、ガウンのリボンをするりとほどき、パジャマのボタンをはずしはじめる。

「え? まって? 俊典さん?」
「香水は、キスしたいところすべてにつけるものだろ?」
「つけるのはキスしてほしいところ、じゃなかった?」
「この際、どっちでも同じさ」

 片手でスクリューキャップを開けた彼が、わたしの胸元にガラスのボールを滑らせる。
 立ちのぼる柑橘系の香りと、その奥に潜んだ薔薇やピオニー。

 フローラルノートが弾ける中で、唇に再びキスが落とされた。小さく息をつく間もなく、頬に、顎に、首筋に、鎖骨に、彼の唇は下りてくる。
 わたしたちは、一緒に暮らし始めて三か月経つ。その前から、体の関係はあった。それでもまだ、こうなるたびに、わたしはどきどきしてしまう。

「なまえ、かわいい」

 そんなわたしを見透かすように、俊典さんが笑った。
 胸の鼓動は体温をあげ、つけた香りを拡散していく。
 わたしからたちのぼる、フルーティフローラル。そこに彼の香水のラストノートが、微かに混じる。
 完成された香り同士が混ざるのは好ましいことではないはずなのに、なぜか今は心地よい。

「なまえ」

 胸の先端に軽いキスを落とされ、体がはねた。

「今夜も私を癒してほしい」

 低い声でささやかれ、また口づけられた。今回は触れるだけの軽いものではなく、官能を含むものだった。

 開花した花束の香りに満たされて、わたしも今宵、花になる。

***

 マスタードイエローのスーツを着た背の高い彼の頬に、キスをした。俊典さんは背が高いから、大きく腰を曲げてもらわないと、キスができない。

「今日は、なるべく早く帰るよ」
「うん。でも、無理はしないでね」

 うん、と言いながら笑った俊典さんが、再びかがんで、わたしの頬にキスをする。

「行ってらっしゃい」
「行ってきます」

 俊典さんを送り出し、キッチンに戻って、自分のための紅茶を淹れた。
 キッチンから見えるリビングダイニングは、やっぱり広い。
 ダイニングには重厚なテーブルセットが、木の質感を生かした温かみのあるリビングには、モダンなデザインのローテーブルと、皮張りのソファが置かれている。
 壁際に大きなテレビモニターと、高低さまざまないくつかの間接照明。コーナーには、猫足のキャビネット。

 キャビネットの上には、香水瓶がふたつ。
 ひとつは黒い蓋の、彼の香水。
 もうひとつはピンク色をした、私の香り。

2018.3.16

ふぉろわさんがツイにUPされていた【こちらの素敵イラスト】に触発されてできたお話。
2018.ホワイトデー

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