最悪、と、呟いたその声は、人間のものではない。
人の耳には、にゃーん、という、猫の鳴き声にしかきこえないことだろう。
わたしの個性は『猫化』だ。姿かたちを猫に変えることができる。
人の身体のまま猫の特性が身につくわけではなく、身体が猫そのものになるだけというしごく単純な個性であるため、特になんの役にもたたない。猫に変身して、街を徘徊するくらいがせきのやま。
無資格者の個性使用は禁じられているが、迷惑行為に当たらない場合、黙認されることの多い昨今。
ご多分にもれず、わたしもときたま猫に変身する。もちろん、他人の敷地内に無断で侵入したりはしない。ただ、街を歩くだけ。
だが猫の身体から見る街は、人でいるときとは様相が変わる。職業柄、ひととは違う角度から物事を見ることは、わたしにとって必要なことでもあった。
しかし、今日この選択をしたのは、間違いだった。心の底からそう思う。
いつものように猫化して、この街では有名な女の子の像の前を過ぎたところで、発情した雄猫に目をつけられた。ひとの姿に戻れば、野良猫の一匹くらい、追い払うことはたやすい。しかし、猫の時のわたしは全裸だ。麻布十番商店街のど真ん中で、妙齢の女が全裸になるわけにはいかない。もちろん、雄猫に組み敷かれるのもまっぴらだ。
だから逃げた。全力で。そして気がついたら、見知らぬ狭い路地にいた。
人の姿と猫とでは、目線の高さが違う。だから人の姿になれば、ここがどこかすぐにわかることだろう。けれど、やっぱりそれはしたくない。
しかたなく、猫の姿のままふらふらと街をさまよう。そのうちに、冷たい雨まで降ってきた。
『ここ、どこかなぁ』
返事をしてくれる人間などいないことを知りつつ、ひとり呟く。ひとりごとでも言っていないと、不安に押しつぶされそうだった。
人の姿になればきっと、ここがどこかわかるだろう。だが、いま、そうするわけにはいかない。なぜなら、今のわたしは全裸だから。
猫の姿の時は衣服を着ないのが自然だが、人に戻った時はそうはいかない。
『ほんとうに、今日はついてない』
と、猫の言葉でもう一度ひとりごちたそのとき、肉球がとらえる感覚が大きく変化したことに気がついた。
土でも芝でもアスファルトでもない、妙にふかふかした、硬めのスポンジのような感触。
この感覚に、覚えがある。靴を履かずに歩いたことはないものの、思い当たる場所を素足で歩いたなら、きっとこんなだ。
あわてて周囲を見渡すと、大きな遊具が目の中に飛び込んできた。
この身体だと妙に大きく見えるが、カラフルなあれは滑り台だ。そのまわりに、トーテムポールとロボットが数体。
思った通りだ。ここは、さくら坂通りに面した、児童公園。
つまり、わたしは六本木まで来てしまったということだ。
自分の居場所がわかったとたん、疲れがどっと押し寄せてきた。びしょ濡れの身体が、いつもの倍くらい、重たく感じる。
よろよろしながら滑り台の下に潜り込み、ふかふかした床に身体をあずけた。
体をぶるぶるとふるって、大きく息をつく。
さて、これからどうしよう。
人の感覚では麻布十番から六本木は目と鼻の先だが、この小さな身体にとっては、それなりの距離。
一般的に、猫の行動範囲は野良猫で半径5百メートル前後、飼い猫であれば百から二百メートルくらいと言われている。猫になった時のわたしの行動範囲も、半径百メートルがいいところ。
完全に普段の行動範囲を超えている。
無理をおして帰路についても、今の状態では家に辿りつけはしまい。あの雄猫と、また出くわしたりしたらおしまいだ。
だが、麻布六本木界隈は、深夜になっても人通りが多い。服を着ていない今、人に戻るという選択肢は、ない。
『こまった……なあ……』
考えているうちに、急激に眠くなってきた。猫の身体でいるときは、人でいるときよりも、起きていられる時間が短い。
『とりあえず、ここで一晩すごす……か……おなか……すいた……なぁ……』
眠気に勝てず、とろとろしながら、本日何度目かのひとりごとをつぶやいた――――その時だった。
「あれ? 猫?」
高いところから響いた、少しかすれた低い声。
驚いて目を開けると、そこには信じられないくらい大きな足があった。ピカピカに磨き上げられた、茶色の革靴。その上には、骨ばった生の足首。
アンクルソックスを履いているのか、それとも素足か、素足に皮靴は蒸れないだろうか、などと、職業病ともいえる無駄な観察をしながら、視線をあげる。
「びしょ濡れじゃないか。かわいそうに」
と、伸びてきた大きな手が、わたしの首根っこを掴んでひきあげた。
『いやん』
「ああごめん、びっくりしたかい?」
猫語を介さないであろう大きな手足の主は、穏やかに言った。痩せて背の高い、40代くらいの男性だ。へにゃりと笑ったその顔が、やけに愛嬌がある。
どうしよう。優しそうなひとだけれど、逃げたほうがいいだろうか。
「寒かったろうね。でももう大丈夫。私が来た」
それは、妙に安心できる、どこかで聞いたようなセリフと声音。
わたしはなぜか、この一言で逃げる気力をなくしてしまった。
「この辺りで野良猫なんて、珍しいな」
男はぽそぽそと語りながら、首に巻いていたストールをはずして、わたしの身体をくるんでくれた。
上質な天然素材であろうそのストールはやわらかく、余分な水分を吸いながら、凍雨に濡れた身体を優しく包む。
「でも、野良猫にしては、君は綺麗だね。首輪はしていないけれど、迷い猫かな?」
男はそう言って、わたしをコートの懐にいれた。ストール同様、コートも高そうな素材でできている。なのに、無造作にこんなことができるなんて。
「よしよし、怖くないからね」
やわらかな声に、顔をあげる。目の前に、大きく張り出した喉仏があった。痩せているせいか、男の首は長く見える。
抱き上げられた位置も、わたしが人の姿をしている時よりも、ずいぶんと高かった。
このひと、軽く二メートルはあるんじゃないだろうか。なんだかキリンみたいだ。首が長くて、背が高くって。
キリンの個性の男と、ライオンの個性を持った女が恋に落ちたら、どんな物語ができるだろうか。
再び戻ってきた睡魔に飲みこまれながら、そんなことを考えた。
***
「みょうじ先生。ここでひとつ、有名人の自伝を書いてみませんか?」
と、出版社の一室で、新しく担当になったばかりの男は言った。
「伝記ですか?」
それならばノンフィクションのライターに頼むべきだといらえようとし、はっとした。
「いま、自伝とおっしゃいましたよね……それは、わたしにゴーストライターになれということでしょうか?」
「……代筆のお願いですよ」
言い方が変わっているだけで、やることは同じだ。『有名人の自伝』と言われたからには、その本にわたしの名前がクレジットされることはないだろう。
断るべきだと思いながら、そうすることを躊躇した。
これを蹴ってしまったら、きっともう、この会社から自分の本が出ることはないだろう。少し前から、そんな兆候はあった。
この業界に入ったのは、大学二年の時だ。
公募新人小説で賞をとり、美貌の女子大生作家みょうじなまえとして、華々しく文壇にデビューした。賞を取った作品は話題になり、それなりに売れたものの、以降の作品は鳴かず飛ばず。
売れ行きが悪くても、話が書けるうちはまだよかった。けれど、売れるものをと思い悩むうちに、いつしか小説そのものが書けなくなった。書けなくなって、そろそろ一年。
デビュー作以降、たいしたヒットもない作家の面倒をいつまでもみてくれるほど、出版業界は甘くない。だからこうした提案をされるのも、仕方のないことではあった。
「みょうじ先生、いかがでしょう?」
たしかにわたしは書けない作家だ。けれど、自分が目指したのは小説家であって、ゴーストライターではない。
ゴーストの帝王と呼ばれながら、のちに小説家としての地位を確立した大作家もいる。現在文豪と呼ばれているようなひとが、別の文豪の代筆をしていた記録もある。
けれど、今の自分が一度ゴーストの仕事を受けてしまったら、きっと抜けられなくなってしまう。そんな気がした。
だからといって、いつまでもこのままでいられるはずもなく。
「……少し、考えさせてください」
出版社の狭い打ち合わせ室で、わたしは担当編集の男に、そういらえたのだった。
***
『でも、やっぱりいや!』
自分の叫び声、いや、鳴き声で目が覚めた。
どうやら、昼の出来事をそのまま夢にみてしまったらしい。ゴーストライターへの転身話は、現実だった。
「おや、目が覚めたかい?」
にこにこしながら、男がこちらに近づいてきた。
男は大きな手でわたしの頭をなでた。少しひんやりとしているが、不思議に落ち着く、優しい手だった。
「君の飼い主がいるかもしれないから、迷い猫を預かっていると警察や専門のセンターに届け出は出しておいたからね。早く飼い主さんがみつかるといいんだけど」
猫相手に、真剣にそう説明する、その律儀さが素敵だと思った。
わたしを抱いたまま、男は窓辺に向かった。大きな窓から見える、東京の夜景。
高いところから見下ろす都会の景色は見事で、作りものだとわかっているのに、はるか上空からまたたく星々を見おろしているような気分になれる。
「ここから見えるたくさんの灯りの中に、君のご主人様が暮らしているんだろうにね」
そんなことはないのよ、と言うかわりに、にゃあ、と鳴いた。
しかし、と、わたしは少し憂鬱になる。
広がる夜景から推測するに、ここはタワーマンションの、高層階の一室だろう。
『困ったな……』
弱くつぶやくと、男がよしよし、と優しくわたしを撫でた。
六本木にはいくつもタワーマンションがあるが、そのほとんどが高級物件だ。ゆえに、セキュリティも万全。猫のままの姿で逃げ出すことができるだろうか。
低層階なら窓から飛び降りることも可能だったろうが、いくら猫とはいえ、この高さから飛び降りて、無事でいられるとも思えない。
事情を話して男から服を借りようかとも思ったが、密室で人の姿に戻るのは、やはり危険だろう。
「君はロシアンブルーかな? 本当に美人さんだね。グレーの毛並みも、エメラルドみたいな瞳の色も、とてもきれいだ」
わたしの不安に気づきもせず、のんきな声で男が言った。
だが、男の青い瞳も美しい、と思った。
暗い眼下の奥で超高温の炎のように揺らめきながら輝きを放つ、サファイアブルーの瞳。
わたしはこの瞳を、どこかで見たことがあるような気がした。
「君は運が良かったよ」
男はさみしそうに続ける。
「三年前だったら、こうはいかなかったよ。かつて私には切れ者の相棒がいてね。何事においても、すごいチェックがあったんだ。彼は同じマンションの中層階に住んでいたから、君は即、迷い猫専門のセンターに送られていたと思うな。わたしもそうしようか迷ったんだけど、さみしいからさ。飼い主さんが見つかるまで、うちで保護することにしたんだよ。さみしいものどうし、慰め合おうね」
さみしい者どうし、という言葉がひどく悲しそうに聞こえたので、男の手指をやさしく舐めた。
「君はいいこだね。ありがとう。お腹がすいたろう。カリカリは好きかな?」
と、男は二つの容器が連なったペットボウルを、わたしの目の前に置いた。片方にはドライタイプのキャットフードが、もう片方にはミルクが入れられている。
それだけではない、部屋の端には、猫用のトイレまで設置されてた。
しかし、せっかく用意してもらって悪いが、キャットフードを食べるのには抵抗がある。
とりあえずミルクだけをいただくことにして、お礼のかわりに、にゃあと鳴いた。
***
大きなソファーの上で、目が覚めた。身体の上には、ふわふわのブランケットがかけられている。朝日が差し込む室内はとても広く、きちんと整頓されていた。
『ここ、どこ?』
自分が見知らぬ男に拾われたのだと思いだすまで、数秒かかった。
『あ、そうだった……わたしいま、拾われた迷い猫なんだ……』
猫の言葉でそうひとりごち、軽く伸びをする。
「おはよう、猫ちゃん」
からし色のスーツを身につけた男が、わたしに声をかけてきた。職場が近いのか、すでに八時半をまわっているというのに、男は慌てる様子もない。
「私はそろそろ出勤するから、いい子で待っているんだよ」
そう告げた優しい声に、にゃあといらえた。
いいタイミングで目覚めたものだ。脱出のチャンスが訪れた。
怪しまれないようおとなしい顔をしながら、とことこと男の後を追った。
「なんだ、お見送りしてくれるのかい。嬉しいな」
男は大きく身をかがめ、にこりと笑う。
「いい子で待っててね」
さきほどと同じことを繰り返し、男が玄関の扉を開ける。その瞬間、わたしはカーペットが敷かれた廊下へと飛び出した――――はずだった。
ところが、ところがだ。廊下の外へと飛び出したはずなのに、わたしはなぜか男の腕の中。
いま、なにが起きたのだろう。
出られたと思った時にはもう、男に捕らえられていた。猫である時は、人間よりも動体視力や反射神経が優れているはずなのに。
「む。こうやっておうちからも飛び出したんだろう。イタズラな子猫ちゃんめ」
さほど怒ってもいないようすでそう告げた男は、わたしをやさしく家の中に入れて、外から扉を閉めた。
がちゃり。
鍵のかかる金属音を、こんなに重たく感じたのは、はじめてのことだった。
気落ちしていてもしかたない。脱出の機会はきっとまた訪れる。気を取り直して、わたしは室内を観察することにした。
もちろん、観察するのは一続きになっているリビングダイニングとキッチンだけだ。その他の部屋はもちろん、リビングの引き出しの中を勝手にあけたりはしない。
ゆうべは疲れと眠気で気がつかなかったけれど、室内の調度品の趣味は、悪くなかった。雰囲気のある、ビンテージアメリカンでまとめられた部屋。
男はオールマイトのファンなのか、かの英雄にまつわるグッズもいくつか飾られていた。わたしはマニアではないからわからないけれど、それなりに価値がありそうだ。
と、その時、ぐうう、とお腹がなった。
ペットボウルには男が用意しておいてくれたソフトタイプのキャットフードが入っている。男が朝からコンシェルジュに電話をし、届けさせたものだ。昨夜ハードタイプを食べなかったから、やわらかいものにしてくれたのだろう。気遣いは本当にありがたいが、やはりキャットフードを食べるのは、抵抗がある。
心の中でごめんなさいと謝って人の姿に戻り、キッチンの棚の中にあったカップ麺のひとつをこっそり食べた。お代は、ここを抜け出せたそののちに、コンシェルジュを通して渡してもらえばいいだろう。
***
男は、夜遅くなっても帰ってこなかった。
昼間のあいだ人に戻って起きていたぶん、猫の姿になるとすぐ眠くなる。
ソファの上でうとうとしていると、ベランダのほうから大きな音がした。
何事だろうかと、窓辺にかけより驚いた。そこに、オールマイトがいたからだ。
オールマイトはモニターを通して見るよりも、ずっと大きくて、そして疲れた顔をしていた。顔色もよくない。
ファンであろう男がいたら、きっと部屋に招き入れただろうにと思った瞬間、オールマイトが口からごふりと血を吐いた。
『オールマイト!!』
猫の叫びが聞こえたのだろう、オールマイトがわたしに向かって微笑んで、ベランダの鍵に手をかざす。すると、音もなくベランダの鍵が開錠した。指紋認証タイプの鍵だ。
けれどどうして、オールマイトの指紋で、この家の鍵が開くのだろうか。
次の瞬間、わたしはその理由を目の当たりにすることとなる。
室内に入ってきたオールマイトは、転がるように床に倒れ込み、ぼん、という音と共に
姿を変えた。
わたしの目前に横たわる肉付きの薄い顔は、間違いなく、この部屋の持ち主である、痩せた男のものだった。
2018.6.24
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