会社を出て地下鉄の駅に向かった時はまだ曇り空であったというのに、地元の駅を出たとたん、ぱらぱらと降り出した雨。
今年は、やけに雨が多い。
八月に入ってからずっと、曇天と雨天が続いている。これほど晴天に恵まれない夏も珍しい。
暑すぎないのは助かるが、夏ならではの、青い空にむくむくとわきあがる入道雲や、照りつける太陽が、やっぱり恋しい。
「湿気、すご……」
思わず、そうひとりごちた。
真夏の夜に降る雨は、じっとりと肌にまとわりつくような気がしてしまう。
熱帯夜もつらいけれど、こうじめじめとした夜が続くのも、また考えものだ。
駅から家までは徒歩五分。けれどその五分の距離が、今日はやけに長く感じる。左肩にかけたいつものバッグも、常より少し重く感じた。
それは、残業続きで疲れているから。でも本当は、それだけじゃない。
じめじめとした、雨の夜だから。でも本当は、それだけじゃない。
大きく息をついて、時計を眺めた。時刻は十時ちょうど。
こころが重い本当の理由は、今日はわたしにとって、特別な日だったから。
本当は、俊典さんに会いたかった。
親子ほどの年齢差がひとつ縮まる、この日には。
そう。今日はわたしの、誕生日。
でも、俊典さんはヒーローだから。
各地でオールマイトを待つ人はたくさんいて、地方からの出動要請を、わたしの誕生日のために断るわけにはいかない。
少し早めの誕生日プレゼントを手渡しながら、ごめん、と謝る彼に、大丈夫、と笑みを返して送り出したのは、昨夜のことだ。
だから、愚痴などこぼしてはいけない。
そう思いながら、最後の角を曲がったその時だった。
わたしの住むコーポの前に、背の高い男のひとが立っている。
そぼ降る雨の夜なのに、そのひとの周りがほんのりとあかるく見えた。まるで彼そのものが、発光しているかのように。
もちろん、それはわたしの目の錯覚。
それでも思う。どんなときでも、あのひとの存在は明るく人々を照らすのだろうと。
間違いようがない。あの長細いシルエットは――。
「俊典さん!」
走りだし、薄い胸の中に飛び込んだ。骸骨と見まごうくらいに痩せてしまっても、やっぱり彼はスーパーヒーロー。
わたしの体当たりなんてものともしないで、片手で軽々と受け止めてくれる。
「おいおい。傘をさしたまま飛び込んできたら、危ないじゃないか」
「ごめんなさい。嬉しくて、つい」
涙声で答えると、俊典さんはにこりと笑う。
「なまえ、誕生日おめでとう」
「……今日は、会えないと思ってた」
「思ってたより早く終わったから、来ちゃった」
「ずっとここで待ってたの?」
「いや、さっき来たばかりだよ」
俊典さんはそう言って笑ったが、もしかしたら、ずいぶん待っていてくれたのかもしれないと、ひそかに思った。
***
「誕生日おめでとう」
「もう。何回言うの?」
「何回言ったっていいだろう? 君が生まれてきてくれたことを祝いたいんだ」
そっと、髪に落とされる、優しい口づけ。
部屋に入るなり、ひょいと膝の上に乗せられて、長い腕の中に閉じ込められてしまった。
あれから何分経っただろう。でも、彼の膝の上はなんだか心地よくて、ふわふわした気持ちになってしまう。
俊典さんはわたしを膝の上に座らせて、後ろから抱きしめるのが好き。
わたしも、俊典さんの長い腕に包まれるのが、とても好き。
「この時間になっちゃったから、お誕生日のディナーはまた後日」
耳元で、優しくて低い声がささやく。
「なまえはなにが食べたい? 予約を入れておくよ」
「えーとね」
と、二人でたまに行く、気取らないけれど雰囲気のいいビストロの名をあげると、俊典さんはオーケー、と笑った。
「ありがとう。楽しみ」
「私もだよ」
髪から耳、そしてうなじへと降りていく、ひやりと乾いた、彼の唇。
これから何がおこるかを予想して、頬を染めたその時、わたしのお腹がくうぅ…と鳴った。
「くっ……もしかしてなまえ、お腹すいてる?」
「あ……違う。夕飯はちゃんと食べたよ」
残業しながらだったので、夕飯は軽食ですませてしまった。本当は、ちょっとお腹がすいている。
君は本当にかわいいねと笑いながら、俊典さんがわたしの頬にキスをした。
「なまえ、雨だけど、なにか食べに行こうか。実はね、私もちょっと小腹がすいてきたところだったんだよ。この時間だと、ラーメン屋さんとかファミレスになっちゃうかな。お酒が飲みたかったらダイニングバーも悪くないね」
「お腹がすいたなら、なにか作るよ?」
「だめ、今日の君はお姫様だから」
「じゃあ……」
「なに?」
「トマトのラーメンが食べたいかも……」
「ああ。駅前の。君、あれ好きだよな」
「この時間にとんこつラーメンを食べるのは、罪悪感に襲われちゃうけど、トマトだったら大丈夫って思っちゃうの」
「まあ……トマトはビタミンやミネラルが豊富だからね」
「リコピンもたっぷりだから! それに美味しいし」
「たしかにうまいね。思い出したら猛烈に食べたくなってきたな。私、期間限定の『八種の夏野菜が入った野菜トマト麺』が気になってたんだよね」
「俊典さん……あいかわらず、わたしより女子力高い……」
そうかい、と笑んだ彼に、そうよ、と返すと、ぽん、と頭に大きな手が置かれた。どうしよう。とても幸せ。
誕生日の夜に食べに行く、トマトのラーメン。
五つ星レストランでのお祝いディナーも素敵だけれど、こういうのだって悪くない。だって、俊典さんがいてくれる。わたしはそれだけで幸せだもの。
すべての人を明るく照らす太陽のようなひとと過ごす、誕生日の夜。
幸せすぎて、思わず笑んでしまったわたしを、俊典さんが不思議そうに覗き込む。
「どうしたんだい?」
「あのね、大好き」
答えると、わたしの太陽は少し照れ臭そうにして、それからゆっくり破顔した。
2017.08.21
くろ様のお誕生日に寄せて
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