はあと吐いた、その息が白い。マフラーをしていても、隙間から入り込む冷気は容赦なく肌を刺す。
なまえ、こちらも寒いがそっちはどうだい?
本日、ここよりもっと寒いところで誕生日を迎えた、君を思った。
「あーあ……」
情けない声が口もとから漏れた。
なにかを察したのだろうか、我が愛犬がきゅーん、と悲しげな声をあげながらこちらを見上げる。
「ああ、ごめんごめん。大丈夫だよ」
我が……いや、我らが愛犬は、イングランド原産の猟犬だ。海外のアニメ主人公犬のモデルになったことでも有名な犬種、ビーグル。
垂れた耳とくりくりとした目が、本当にかわいい。
しかし、こいつは身体は小さいが、運動量がめちゃくちゃ多い。ハウンド系の犬はおおむねそうだが、こいつも長時間の散歩を必要とする。歩いているだけではダメらしく、飛んだり跳ねたり探索させたり、とにもかくにも大変だ。
けれど幸いにして、我が家から徒歩10分の距離に二十四時間利用可能のドッグランがある。もちろん照明灯完備。
本当に、徒歩圏内にこの施設があってよかった。もしもこの公園の存在がなかったら、私は疲労しきった体で延々歩かなければならない羽目になっていた。
「そら、好きに遊んでいいぞ」
運動が大好きな賢い犬だ。リードを放してそう伝えると、嬉しげに駆け出して行く。好奇心旺盛で探索好きなこいつは、ドッグランが大好きだ。他の犬とも上手に遊ぶ。
『あの子の散歩はけっこう大変よ。なんならペットシッターに散歩を頼もうか? なじみのトレーナーさんのいるところだから安心よ』
『冗談じゃないぜ。犬の世話くらい屁でもないさ』
ひと月の海外出張が決まったとなまえに告げられた時、ついそう答えてしまったが、ヒーロー活動と運動量の多い犬の世話と家事の三点をすべて立たせることは、想像していたよりもずいぶんハードなものだった。
そしてなにより、なまえがいないという事実が、私の疲労を倍にした。
ひと月くらいなんてことない。愛があれば離れていたって揺るがない。
そう思っていたはずなのに、なまえのいない日々は、想像以上にさみしいものだった。たとえるならば、色彩を失ったモノトーンの世界。
「それにしても」
またしても独り言が滑り出る。
それにしても、出張先がモスクワというのが心配だった。冬のロシアは最高気温ですら、氷点下になるという。
なまえ、極寒の国で、君は寒い思いはしてはいないか? 一人の夜は寂しくないか?
今日は君の誕生日だろう。一人ですごす記念日ほど、悲しく切ないものはない。
凍りついた大地で一人たたずむなまえの姿が脳裏に浮かんで、そして消えた。
もちろん、なまえが実際に一人ぼっちでいるとは思っていない。
なまえは明るい性格で、語学も堪能だ。きっとあちらのスタッフと、楽しい誕生日を迎えていることだろう。
今日という日を一人と一匹で過ごすことを、さみしく思っているのは私だ。なまえがこの世に生まれてきてくれたことを、できれば共に祝いたかった。
「なあなまえ、早く帰ってきてくれよ。君のいない世界は悲しすぎる」
ぽつりと漏らしてしまった声がきこえてしまったかのように、愛犬がこちらを振り返った。
そうだよな。君も私と同じ気持ちだろ。なまえの不在はつらいよな。
けれど、なまえはあっさりしたものだった。元々そういうところがあるのだ。
二人でいる時はとても情熱的なのに、私が地方に行った時なども、連絡一つよこさない。
今回はなまえの出張だけれど、やっぱり同じだ。この四週間の間も、画像が添えられたメッセージが、一日一回送られてくるだけ。
昨日など、昼過ぎにイクラのたっぷり乗ったブリヌイの画像に「美味しい」と書かれたものが送られてきて、それっきりだ。
しかも、今日はまだ一通もメールが来ていない。私はちゃんとお祝いメールを送ったというのに。
とどのつまり、執心しているのは私だけ。
会いたくて会いたくて震えているのも、私ひとりというわけだ。
「ま、互いの間に温度差があるのは仕方のないことさ」
ぶるりと頭を降って、小さく笑んだ。これは自分を元気づけるための笑み。
なまえが帰国するのは三日後だ。今日は無理だが、その時に盛大にお祝いをすればいい。
プレゼントは何がいいだろうか。
食事は外食の方がいいかな、それとも久しぶりに私が腕をふるおうか。
そんなことを考えて、残りの日々を過ごすしかない。
愛犬を好きに遊ばせている間に、すっかり体が冷えてしまった。手袋をしているのにもかかわらず、指先がかじかみ始めている。
探索に夢中の愛犬を呼ぶと、嬉しそうに尻尾を振りつつこちらに向かって駆けてきた。
これだけ長いこと遊ばせれば、もう今日の運動は充分だろう。
たくさん遊んで満足した愛犬をリードにつないで、歩を進めた。
ドッグランを出て大通りを渡ると、すぐに住宅街に出る。
冬の乾いた風が、前髪を揺らした。
凛とした空気を孕んだ、冬の夜が好きだ。その寒さゆえに、家々の窓からこぼれる白や黄色の光がとても温かそうに見えるから。
淡く柔らかなその光は、そこに暮らす人たちのささやかだが優しい暮らしを象徴しているように、思えてならない。
住宅地を10分ほど歩くと、戸建てを思わせるスパニッシュスタイルの我が家が見えてくる。ペット可なだけでなく防音対策もきっちりされた、低層階のマンションだ。無駄吠えしないようしつけはきっちりしているが、吠える可能性はゼロではない。狩猟犬であるビーグルの吠え声はたいへん響く。念の為にとここを選んだ。
と、トレードマークの赤茶色の屋根が見えてきた瞬間、愛犬の様子が変化した。
ぱたぱたと降られたしっぽ。なにか言いたげにこちらを見上げてくる仕草。
なんだろうと目を凝らした瞬間、その理由がわかった。
大きなスーツケースを転がしながら、マンションのエントランスに向かう、見覚えのある女性の姿。
「なまえ!」
思わず大きな声をあげると、なまえは顔をこちらに向けて、嬉しそうに微笑んだ。
「夢じゃないだろうな。三日も早く会えるなんて」
「仕事が早く片付いたから、早めに帰国できたの」
「どうして連絡をくれなかったんだい?」
「だって、びっくりさせたかったんだもん」
「まったく、君は」
なまえの手からさり気なくスーツケースを受け取る。私たちの会話に混じっているつもりなのか、愛犬がひとつ、わぉん!と鳴いた。
「プレゼントもケーキもまだ用意していないぜ」
「大丈夫。ピース売りだけどケーキは途中で買ってきた。それからプレゼントはもうもらってる」
「は?」
「プレゼントは、わたしを見つけた時のさっきのあなたの笑顔」
やられた、と思った。
そんなことを言われたら、こちらも舞い上がってしまうじゃないか。
「そんなものでいいのかい?」
「ええ」
「欲がないんだな」
「わたしはね、あなたといられるだけで幸せなのよ」
「そりゃ私もだ」
嬉しい気持ちを抑えきれずに、腰をかがめてなまえの頬にキスをおとした。かさかさしている私のそれとは全く違う、柔らかな頬。
「今日は寒いから、すっかり頬が冷えちゃったね」
「そう? でもあっちに比べたら日本はずいぶん温かいわよ」
「そりゃ、極寒のロシアと比べたらそうだろ」
ふふ、となまえが嬉しそうに笑う。
ああ本当に、笑顔の君といられることこそ、私にとっての幸せだ。
「そうそう、あっちの地下鉄ってね、駅の装飾が凄いのよ。豪華絢爛。たくさん写真とったから、後で一緒に見ようね」
「メールで送ってくれればよかったのに」
「わたしはあなたと一緒に見たかったの」
まったく、これだ。
君はさっきから、何度殺し文句を告げているのかわかっているのか。離れているときは、日に一度しか連絡をよこさなかったのに。
けれどそれでも嬉しくて、こちらの頬も緩んでしまう。
「へえ。じゃあさ、部屋でゆっくり話を聞かせてくれよ」
「ええ」
自分のそれよりかなり低い位置にある肩を抱き寄せて、今度は額にキスを落とした。
三日も早く帰ってきてくれてうれしいよ。君の誕生日を一緒に祝うことができて、本当に。
「なまえ、おかえり。そして誕生日おめでとう」
「ありがとう」
二人と一匹でエレベーターに乗り込んで、ボタンを押した。
ドアが完全に閉まったのを確認し、なまえのことを抱きしめる。
「防犯カメラが回っているわよ」
「かまやしないさ」
やわらかな唇にキスを落として、私は心の中で呟く。
なまえ、誕生日おめでとう。どうか君が、ずっと笑顔でいられますように。
2017.1.14
冬に生まれたあなたへ
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