夏の終わりのRegret ここにいない貴方へ

 三階まで吹き抜けの高い天井、美しい曲線を描くガラスのカーテンウォールと、目前に広がる緑豊かなオープンテラス。夏の終わりのひざしがさんさんと降りそそぐカフェの中は、とてもあかるい。
 美術館のエントランスにあるこのカフェの開放感を、彼はかつて、とても愛した。

 毎年、春になるとあのテラスでお茶を楽しんだ。新緑の中、柔らかな春のひざしと彼のまなざしを受けながらのティータイムは、それは幸せなものだった。
 何故なら彼はその時だけは、オールマイトという英雄ではなく、八木俊典という、ごく平凡なひとりの男性でいてくれたから。

 けれど最終的に、わたしはその幸せを放棄した。

 興奮しただけで血を吐くような身体で人を救おうとする、彼を見守るのがつらかった。
 活動するたびにぼろぼろになっていく、彼を見るのがつらかった。

 そして結局のところ、わたしは彼に自分だけを見ていてほしかったのだ。
 市井に生きる人々ではなく、わたしの心の安寧を、そしてなにより彼自身を、彼には守ってほしかった。

 わたしは、そんな自分が許せなかった。

 自己を犠牲に世界を救おうとした彼をエゴイストと呼ぶのなら、そうまでして人を救いたがる彼の意思を尊重しきれなかったわたしは、いったいなんと呼ばれるのだろう。

 生涯かけてあなたを支える。
 口先だけでそう告げることは、とてもたやすい。
 濁った汁の上澄みだけをすくうように、お綺麗な上っ面だけと向き合って生きていけたなら。
 だがたいていひとの人生は、上澄みの下で沈殿する澱の中でもがきあがくようなものだ。
 相手に対する恋慕を、一方的な執着という形でこじらせてしまったのなら、なおさらに。

 膨れ上がった己の気持ちをもてあましたわたしがとった選択は、彼を「わたし」から解放することだった。

 けれど、それが正しかったのかどうか、今でも思い悩むことがある。
 どれほど考えたところで、もはやどうにもならないけれど。

 彼と過ごした家を出たあの日、ダイニングテーブルの上にわたしは緑色の香水瓶を置いていった。その香水瓶を見るたびに、わたしのことを思い出してもらえるように。
 馬鹿なことをしたものだ。別れた女の残した香水など、彼がとっておくはずもないのに。
 そしてわたしは、それ以来、香水をつけるのをやめた。

 香水をつけない女性に未来はない、と言ったのは、シャネル。
 彼女の言葉を体現するように、わたしの人生の時計は、彼と別れたあの日以来、とまったままだ。
 わたしにあるのは、彼と過ごした過去だけ。未来などない。

 けれど、生きた屍のように過去とだけ向き合いながら生きていたわたしは、ある日現実に引き戻された。
 それはほんの数週間前の出来事。テレビの画面から流れてきた、ある大事件の映像だった。



 焦土と化した横浜の街で、絶望という言葉を体現したかのようなヴィランと対峙する、痩せ細った男。
 愕然とした。
 この真実の姿はまだ人々の前にさらすことはできないと、彼は常々言っていたのに。
 わたしが彼と暮らしていた頃に死ぬほど恐れた光景が、延々と画面に映し出される。
 折れそうな細い身体で、悪夢のような存在と戦う、オールマイト。
 負けるな頑張れと、無責任に彼を煽る民衆の声。
 どんなに細り衰えようと、どんなにぼろぼろになろうと、オールマイトは立ち上がる。己を呼ぶ、人々の声がある限り。

 吐き気をこらえながら、わたしは画面を注視し続けた。
 民間人のわたしにできたことは、それだけだ。
 ただ、彼の姿を見守る。それだけ。

 そして彼の逞しい腕が天に向かって高々と掲げられた瞬間、ああこのひとは、オールマイトという偶像たることを全うできたのだなと、静かに思った。
 
 その後、オールマイトは事実上の引退を表明した。



 そっとカップをテーブルにおいて、ため息をつく。
 この街でわたしは、彼と暮らし、そして別れた。
 黙って彼の元を去ったわたしを、彼は許してくれただろうか。

 くねったガラスのカーテンウォールの先に視線を向け、広がる空を見つめた。空は、ここから遠く離れた雄英にもつながっている。

 オールマイト。全てを賭してこの世界を救った、比類なき英雄。
 八木俊典。自己を捨てつつ自我を通した、矛盾だらけのやさしいひと。

 あなたは、今、雄英高校にいるのでしょうか。
 そこでもきっと、以前と変わらず静かに笑っているのでしょう。
 どうかこれからは、あなたの周りの世界が、優しいものになりますように。
 あなたが守り続けた人々が、あなたを愛し続けてくれますように。

 あなたが命を賭して守ったこの国の片隅で、人々が溢れるこの街で、わたしは今でも、ひとり祈り続けている。

2017.4.9

恋の残り香の続き

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