スタジオ内の撮りは思いのほか早く終わり、せっかくだからと、少し先にある美術館へと足を延ばすことにした。
小さな日本庭園から自身の名を冠したタワーの脇を抜け、六本木通りを渡る。
ああ、と小さくため息が漏れた。
昔の失恋ソングではないけれど、この街はなまえとの思い出でいっぱいだ。歩を進めるたびに、甘く、そして苦い思い出がよみがえる。
彼女とこの街で過ごした八年は、私にとって、とても優しい時間だった。
なまえのことを思い出しながら歩を進めること数分、曲線を描くガラスの壁が美しい、美術館が見えてきた。
この美術館の一階には、最上階まで吹き抜けになった広いエントランスカフェがある。そこにそそり立つ、巨大な逆円錐状の二つの柱。
一つめの柱の最上部は二階部分につながり、ティーサロンになっている。もう一つの最上部は三階部分と繋がる円形のブラッスリーだ。
開放感のある一階のカフェで、クラブハウスサンドをつまみながら、あるいはレモンクリームパイをつつきながら、なまえとたくさんの話をしたものだ。
しかし残念なことに、思い出のカフェは満席だった。しかたなく二階に行ったが、そこも満杯。
結局、三階のブラッスリーで遅めの昼食をとることにした。
ブラッスリーでの食事は美味だった。ランチのコースはジビエのリエットと鱒のソテー、デザートはフランボワーズのムース。一皿の量がそう多くないのも、今の私にはありがたい。
香りのよいコーヒーを飲みながら、ほっと一息。そのまま一階のカフェをなんとなく見おろして、狼狽した。
そこに、なまえがいたからだ。
涼しげに見えるアイスグレイの服を身に着け、外の景色を見つめていたなまえは、別れた時とあまり変わっていないように見える。
白い紙のカップの中身は、きっとアイスカフェオレだ。彼女はいつもそれを頼んでいた。
ここからははっきりと見えないが、手元に置かれた眼鏡も、おそらく昔のままだろう。
テンプルにダブルFが刻まれた、セルの赤縁。
「参ったな」
自嘲めいた声が漏れた。
コーヒーを持つ手が、小刻みに震えている。
プロになって以来、どんなに強いヴィランと対峙しても、震えたことなどなかったのに。
君の姿をみかけた、ただそれだけのことで、こんなにも動揺してしまうなんて。
なまえ、君は知らないだろう。
あの夜、君が置いていった緑色の香水瓶を、私は未だに捨てることができない。
にもかかわらず、ふたをあけて香りを確かめることもできない。
私の恋慕と未練を閉じ込めたあの緑色の香水瓶は、我が家のキャビネットの中で、今でも静かに眠り続けている。
本当に、君にはさんざん心配をかけた。
私の身を案ずる君が、見えないところで泣いていたことも知っていた。
ヒーローをやめてという言葉を、君が必死でこらえていたことも知っていた。
それでも私は我を通した。私が私であるために。
そして君は、何も言わずに私の前から姿を消した。
だから、私の元に帰ってきてくれなどと、そんな勝手なセリフを吐くつもりはない。
ヒーロー業を引退しても、目の前でなにかことが起きた時、私はきっと危険を顧みずこの身を投じようとするだろう。
自らを犠牲にすることを厭わない私の生き様は、君の心をふたたび蝕む。
私が無作為に呟いた言葉、無意識でした行動、そういったものが、君の心をふたたび削る。
同じことの繰り返しだ。
だから私は、このまま気づかなかったことにしてこの場を去ろう。
それが何より、君のためだ。
だが、一人カフェにたたずむなまえの表情が、明るくないのが気になった。
まさか今、君はひとりなのか。
周りに、君を温めてくれるひとはいないのか。
君と笑い、君と喜びを共有し、君の好きなものを夜毎に語る。そんな誰かはいないのか。
なまえはぼんやりと、窓の外、いや、空をみているようすだった。
いま、君はなにを想っているのだろうか。
と、ふいに、なまえがこちらの方向を見上げた。
ほんの一瞬、絡んだ視線。
「ばかな」
ひとりごちながら首を振る。
この建物の構造上、上からは下の様子がよく見えるが、逆からはあまり見えないはずだ。しかもなまえは目が悪い。おそらく彼女は、私を認識できないだろう。そのはずだ。
だがしかし、なまえは一度大きく目を見開いてから、くしゃりと顔を歪ませた。
困ったような、怒ったような、泣きだす寸前のような、そんな顔。
反射的に、レシートを掴んで立ち上がった。財布から万札を一枚取り出してレジに置き、釣りはいらないと叫んで店をあとにする。
エレベーターを待つ余裕などなく、回廊部分の手すりを越え、そのまま一階まで飛び降りた。
着地の瞬間、足元にだけ力を入れ、衝撃を相殺した。一瞬だけ膨れ上がった筋肉に押され、脹脛周辺の布が破けたような音がしたが、そんなの構っていられなかった。
突然の上から落ちてきた男の存在に驚き、ざわめく人々。その中には、オールマイトだ、という驚きの声がちらほらと混じる。
まったく、なんてことだ。
なまえと再会したからといって、どうなるものでもないのに。
また同じ思いをさせ、同じように悲しませるのもわかっているのに。
それ以前に、彼女が未だに一人でいるかどうかもわからないのに。
それでも、君に戻ってきてほしいと思ってしまう私は、どこまでも残酷なエゴイストだ。
ガラスのカーテンウォールの向こうでは、終わりつつある夏のひざしがきらめいている。
その手前の白いテーブル席で、なまえは困ったような表情を浮かべながら、しずかに私を見つめていた。
2017.4.9
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