悪い男
―わるいひと―

 わたしの家からすぐのところに、美しいガラス張りの美術館がある。館内のカフェやレストランには、展示会のチケットが無くても自由に立ち入ることができるため、広々とした一階のカフェでのお茶を楽しみに来館する人も多い。
 斯く言うわたしも、その一人。
 もちろん、お茶だけでなく、気が向けば展示を楽しむこともある。
 わたしが初めて彼を見かけたのは、その「気が向いた日」の出来事だった。

 それは後期印象派を代表する画家の展覧会でのこと。
 背が高くスレンダーなその人は、ひまわりの絵の前に立っていた。
 長い手足に彫りの深い面ざし。落ち窪んだ眼窩の奥に光る瞳は、晴れわたった空の色。髪の色は絵画の中のひまわりと同じ、黄金色。
 こんなふうに表現してしまうと、まるでファッションモデルのようだが、彼にそんな雰囲気はない。
 細身なのになぜか幅の広い服を着ている彼はとてもモデルには見えず、この街に多い業界人にも見えなければ、芸術家といった体でもなく、サラリーマンでもなさそうで、もちろんヒーローにも見えない。
 いったい、何をしているひとなのだろう。
 それが最初の印象だった。

 彼もわたしと同じようにこの界隈に住んでいるのか、あるいはオフィスが近いのか。そのあたりのことはわからないが、その後もこの美術館で、何度か姿をみかけた。
 一階のカフェで、シュールレアリスムの大家の展示会で、二階のティールームで、正門付近の発券所で。

 この美術館に来る目的が、いつのまにかカフェではなく彼に会うことになってしまっている自分に気がついたのは、つい最近のことだ。
 話したこともないひとなのに、名前も知らない人なのに、彼のことが気になって仕方がない。

 そしてその彼が今、わたしの目の前にいる。
 アールヌーヴォーの巨匠と言われる、中央の画家の展示会。音声ガイドを借りるための列の最後尾に、彼はいた。

「あっ……」
「ン?」

 思わず声をあげてしまったわたしに、彼が振り向く。
 どうしよう。わたしは彼を見知っているが、彼がわたしを知るはずがない。
 不思議そうにこちらを見おろす背の高い彼にどう返していいかわからず、曖昧な笑みを浮かべて会釈した。
 彼は一瞬きょとんとした顔をして、次にやわらかく破顔した。どこかで見たことがあるような、ひとを安心させるような笑みだった。
 そして彼は、まるでなにごとも起こらなかったかのように、また前を向いた。

 今回の展示は番号順ではなく、各自が好きなルートを進めるというシステムだった。彼はわたしとは別のルートを選んだのか、いつのまにか縦に長いその姿は見えなくなっていた。
 女性向けの恋愛小説や恋愛ドラマだったりすると、こういうことがきっかけで「一緒に回りましょうか」となり、恋に発展することもある。
 けれど現実はそう甘くはなく。彼とわたしのあいだには、まったくなにも起こらなかった。
 人違いでもしたのかと思われたのか、変わった女だと思われたのか。きっと、そんなところだろう。
 
 すべての絵画を鑑賞し終え、売店でポストカードとクリアファイルを買い、出口へと向かう。
 展示会場を出た瞬間、どきりとした。
 彼が、そこに立っていたからだ。

「やあ」

 かけられた声は、低くて、落ち着きがあって、少し掠れていた。
 想像していたよりも、ずっと素敵な声だった。男性的な、色気のある声。
 なんと応えていいかわからず、阿呆のように立ち尽くしていたわたしに、彼はまた言った。

「さっき挨拶されたからさ。君、よく一階のカフェにいるよね」
「はい……」

 ああ、彼はわたしを認識してくれていたのだ。こんなに嬉しいことはない。
 でもこの後、どうすればいいのかわからない。
 困惑しているわたしに、彼が笑みながら続ける。

「よかったらこの後、食事でもどうだい?」
「……ナンパですか?」
「まあ、ありていに言えばそうだね」

 彼と話せるようなことがあったらといろいろ妄想してきたけれど、それが現実のものになってしまうと、すこし困る。まさか、こんなふうに声をかけてこられるとは思ってもみなかった。
 さきほど変に挨拶なんかしてしまったから、簡単に釣れるような女だと思われてしまったのだろうか。

「食事なんて無理です。名前も知らない男の人と」
「なるほど、それも一理ある」

 彼は軽く肩をすくめて、にこりと笑った。
 それがあまりにあっさりしていたので、わたしは即座に先ほどの自分の言葉を後悔した。
 このまま、彼は去ってしまうのだろうか。そう思うと、胸がつぶれそうに痛い。
 まだなにも始まっていないのに、すべてが終わってしまったかのような気がした。

 しかし彼は立ち去りはせず、ただ、黙ってわたしを見つめていた。
 澄みきった湖のような青い瞳に、自分の姿が映っている。
 しばらく見つめあった後、彼は優雅なしぐさで腰をかがめて、わたしと目線の高さをあわせた。
 そのままゆっくりと近づいてくる、彫りの深い顔だち。
 わたしは彼の青い瞳に囚われたまま動けない。

 息がふれんばかりに近づいた時、彼は片方の口唇を軽く上げ、わたしの耳元でささやいた。

「私の名前はね、俊典」

 耳の奥に流し込まれたのは、色香を含んだ低い声。

「君は私の名前を知ってしまった。これでもう問題はないだろう?」
「……」
「どうする? 私についてくるかい?」

 もしかしたら、想像していたよりずっと、このひとは悪いひとなのかもしれない。
 それでもきっと、この誘惑に抗うことはできない。

 ちいさくおののきながら、こくりと頷く。
 これから起こりうるであろうことへの大きな期待と少しの不安に、わたしの体がぐらりと揺れた。

2017.4.20
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月とうさぎ