時刻は午前一時。画面を確認するまでもない。たいした用もないのにこんな時間に電話をかけてくるのは、たった一人だ。
「……もしもし」
「やあ、なまえ。起きてた?」
耳孔に流れ込んできたのは、予想通り、よく通る、明るて甘く、低い声。わたしの彼は、こういう勝手なところがある。
「ダメ元で電話してみてよかった。たしか君、明日の授業は午後からだったよね」
「まあ、そうです」
「じゃあ、ちょっとだけ話させて」
「……いいですけど」
八木さんこそ明日のお仕事は大丈夫なんですか、という言葉を、口には出さずに飲み込んだ。たずねたところで、きっと答えてはもらえまい。
「元気にしてた?」
「おかげさまで」
わたしたちのしているのは、いわゆる遠距離恋愛。
今月の頭から関西の大学に通うことになったわたしと、同じく今月の頭から東京を離れることになった彼。
彼――八木俊典――がどんな仕事をしているのか、わたしは知らない。知り合った頃、何度か聞いたことがあるが、別の話題ではぐらかされた。もしかしたら、人に言えないような仕事をしているのかもしれない。
そんな得体の知れない男のどこが好きかと問われると、自分でもよくわからない。
金髪碧眼の彼は、背が高くて、痩せているけれど骨格はしっかりしている。低い声で静かに語るかと思えば、明るい声でよく笑う。人当たりが良くて優しいが、確固たる自分ルールを持っていて、それを曲げることはない。
好きなタイプではないはずだった。それどころか、変な人だと思っていた。
そのはずなのに、気づいたらそういう関係になっていた。理由はやっぱりよくわからない。けれど八木は、いつしかわたしの心の奥にしっかりと入り込み、切り離すことができないくらい大きな存在になってしまっていたのだった。
「もしもし。大丈夫? やっぱり眠い?」
尋ねる声に、だいじょうぶです、と答えて、ひとり微笑んだ。そう。勝手だと言いながらも、やっぱり彼から連絡が来ると嬉しくて。
「あのね。ちょっと窓を開けて、空を見てみて」
「空?」
春とはいえ、夜間の風は冷たい。不思議に思いつつ、カーテンをひらき、窓を開けた。漆を撒いたような空に、星がちらちらと輝いている。今日は新月。晴れているのに、月のない夜。
やっぱり冷えると、カーディガンを羽織った瞬間、東の空に瞬いていた星が、白い尾を引いて、すっと流れた。
「あ。流れ星」
「見えた?」
「ええ」
そういえば、今日は春を代表する流星群の日だ。
テレビの情報番組で気象予報士が言っていた。三大流星群のように次から次へと星が流れるほどではないが、それでも5〜6分にひとつの割合で流れ星が見えるはずだと。
「誕生日おめでとう。私の年齢にひとつ近づいた君と、この天体ショーを眺めたかった」
「……覚えていてくれたんだ」
正直、八木がわたしの誕生日を覚えていてくれたことに驚いた。付き合い始めの頃、一度話したきりだったから。
「当然じゃないか」
「ありがとう」
こんなことで、涙がこぼれそうになってしまうのだから、まったく恋慕というのは度し難い。自分がこんなふうになってしまうなんて、このひとに出会うまで、想像もできなかった。
「きれいだった」
「うん」
電話だというのに、それ以上語らず、ただ、空を見上げた。黙ったままの彼も、わたしと同じように、この自然が織りなす螺鈿細工のような空を見上げているのだろう。遠く離れていても、同じものを見、同じ気持ちを共有している。それが、とても嬉しかった。
と、山の稜線の上を、またひとつ星が流れた。
「今週末、来れるだろ?」
唐突に、静かな声で彼がたずねる。こちらの都合を聞かないところも、本当に相変わらず。
「ええ。もちろん」
静かな声で、わたしはいらえる。結局はいそいそと出かけてしまうのだから、彼が彼なら、わたしもわたし。
「ちゃんとしたお祝いは、またその時に」
「ありがとう」
「それじゃあ、またね」
「え?」
もう?、と、続けたわたしの言葉を待つこともなく、電話は切れた。
「相変わらず、勝手な人」
ひとつ息をついて、再び空を眺めた。口に出した言葉とは裏腹に、心はほっこりあたたかった。
「今週末、会える」
呟きながら閉めた窓の向こうで、白く長い尾を引いて、またひとつ、星が流れた。
2019.4.25
匿名希望の某様に寄せて
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