ポケットに恋の予感

「よろしければ、どうぞ。チョコレートフレーバーのコーヒーです」
 それは、東京に珍しく雪が降った2月半ばのある日のこと。
 小さな麻の包みを差し出した時、彼は一瞬、とても微妙な表情をした。

***

 わたしの勤め先は、麻布十番にあるコーヒー専門店だ。といっても、わたしはコーヒーソムリエでもなければ、バリスタでもない。やっと焙煎をやらせてもらえるようになったばかりの、サブスタッフ。

 店長がこだわりの強い人で、うちの店では焙煎して時間がたったものを店頭に並べるようなことは、決してしない。生豆で仕入れたコーヒーを、お客様からのご注文を受けてのち、焙煎する。このシステムはお渡しまで少々時間がかかるので、忙しい現代人には向かないかと思いきや、コーヒーの愛好家には店長同様こだわりの強い人も多いようで、イートインコーナーもないというのに、店はそれなりに繁盛していた。

 常連さんの大半はあらかじめ電話で注文をし、指定した時間に取りに来ることが多いが、なかには店舗で豆を選び、焙煎が終わるまで待っている人もいる。そういう人は、焙煎中の香りの変化さえ楽しむような、趣味人でもある。

 彼――八木さんも、そうだ。
 年は四十半ば過ぎから後半……といったところだろうか。
 八木さんは背が高く、柳のように痩せている。けれど骨格はしっかりしていて、肩幅は広い。手足は慎重に比例して長いが、枯れ枝のように細い。肉の薄い体と同様に、顔の肉も薄かった。ことに、頬から顎にかけてのラインは、ナイフで削いだようにシャープだ。目と口が大きく、鼻が高く、そして彫りが深い。眼窩が黒い影で覆われてしまうほど。

 彼は週に一度位の割合で店を訪れ、上等の豆を100グラムずつ買っていく。ちょうど一週間で飲みきれる量だけを求める八木さんを、「わかっているひとだ」と店長は言う。なんでも、コーヒーは焙煎して一週間ほどで、香りや味が落ちるらしい。もちろん飲めなくはないし、味の変化に気づかない人も多いらしいが、わかるひとにはわかるそうだ。

 その「わかっている八木さん」は、わたしにとって、「利用限度額が定められていないセンチュリオンカードでお買い物をする、立ち居振る舞いのスマートないいお客さん」でしかなかった。
 昨年最後の営業日までは。

 師――僧――すら走ると書くように、師走……年末はどこも忙しい。
 うちのような小さなコーヒー屋でも、それは変わらず。長期休暇の前に焙煎をと望む常連さんや、お正月に少しいいコーヒーを飲みたいと立ち寄ってくれたご新規さんが引きも切らず訪れ、入店して数ヶ月のわたしは、普段とは違うようすにあたふたしていた。

 そんな時だ。
 一番上の棚にあるコーヒーをとろうと、踏み台の上で背伸びをした。が、次の瞬間、バランスを崩した。少し無理をして、体を斜めに伸ばしたからだ。
 ――落ちる、と、ぎゅっと目をつぶったその刹那、わたしの体は力強いなにかに包まれた。そろそろと目をあけると、そこに肉の薄い顔があった。
 近くにいた八木さんが、体を反転させてわたしを受け止めたのだ。落ちてきたコーヒーの瓶をわたしと同時にキャッチするという、離れ業を成し遂げながら。

 一部始終を見ていた店長は後に語る。
 まるで竜巻のような身のこなしだったと。

「ありがとうございます」
「なんの。君にけががなくてよかった。気をつけてね」

 どこか懐かしく、ひとを安心させるような、その笑顔。
 あろうことか、このときわたしは、自分でもおどろくほど簡単に恋に落ちてしまったのだった。

 意識してしまってからは、もうだめだった。
 誰かを好きになるのは、初めてではない。けれど、恋というのはするものではなく、「落ちる」ものだということを、わたしはあの日初めて知った。
 理性はどこへ行ったのかと、自分でも驚くくらいだ。
 表面的な部分しか知り得ない相手に対する想いが、どんどん加速してしまう。彼の一挙手一投足に、いちいち反応してしまう。

 八木さんは商品を手渡すたびに、必ずありがとうと笑ってくれる。すこし掠れているけれど、優しく甘い、低い声で。
 週に一度、彼がお店を訪れる。それがわたしの密かな楽しみとなった。

 ところが、見ているだけで満足していたはずなのに、もっと先を望み始めている自分に、わたしは気づいた。人というのは、本当に欲深いものだ。
 そして近づいてくる、好意を伝えるにはもってこいの、バレンタインというイベント。

 けれど、いきなりコーヒー専門店の店員に愛を告白されても、八木さんは困るかもしれない。
 散々考えて、シンプルな麻の袋でラッピングしただけの、チョコレートフレーバーのコーヒーを渡すことにした。それなら、ただのサンプルに見えなくもない。
 しかしうちのお店は、注文を受けてから生豆を焙煎する、こだわりの強い専門店。フレーバーコーヒーの扱いはない。なぜなら大抵のフレーバーコーヒーは、焙煎時に香りをつけることが多いから。
 うちの店の常連さんなら、すぐにわかることだ。

 だから、このプレゼントを新製品のサンプルととるか、バレンタインのプレゼントとして受けとるかは、八木さん次第。
 彼にその気がなければ、サンプルをもらったことにして、気づかなかったふりをすることができる。逆にわたしの気持ちに答えるつもりがあるのなら、なんらかのリアクションをとるだろう。
 わたしは、そう考えた。

 そして、バレンタイン当日、八木さんは実に微妙な表情でわたしからのプレゼントを受け取った。
 その後、なにもなかったような顔で、彼は定期的に店を訪れ続けている。
 つまり、八木さんはわたしに興味を抱かなかった。そういうことだ。

***

 真鍮のドアベルが、カランと乾いた音をたてた。

「いらっしゃいませ」

 微笑みながら、内心でちいさく嘆息した。そろそろ来る頃だと思っていた。

 オーク材の扉をあけて入ってきたのは、見上げるほどの長身痩躯。
 ダークグレーのダブルのコートに、柔らかそうな素材のマフラー。見間違いようがない、彼はわたしの想い人。

「なにかおすすめはあるかい?」

 甘く低い声で、八木さんがたずねる。わたしは笑顔でそれにいらえる。

「上質なマンデリンが入荷しましたよ」
「ああ、じゃあ、それを100グラム」
「はい。焙煎はいつもの感じでいいですか?」
「ああ。……いや、今回はいつもより深めにしてもらえるかい?」
「承知しました」

 答えてから、店長こだわりのジェットロースターに生豆を投入し、スイッチを入れた。一気に機械内の温度が上昇し、豆に250度もの熱風が吹きつける。
 焙煎の始まりと共に狭い店内に広がるのは、人がイメージするコーヒーの香りとはまた違う、甘めの香り。
 焙煎が進むうちに、これが徐々にカラメルのような香りになり、その後ごく一般に思われているようなコーヒーの香りへと変化していく。
 八木さんが、この焙煎時特有の香りの変動を好むということを、わたしは知っている。

「ずいぶん、暖かくなってきたね」

 いつものように、彼が微笑む。わたしたちの間に、なにもなかったかのように。

「そうですね。今年は暖かくなるのが早いので、桜も早そうです」

 いつものように、わたしも答える。実際になにかがあったわけではないのだと、自分に言い聞かせながら。

「今月中には咲き始めそうな感じだね」
「この町は桜が多いから、咲くのが楽しみです」
「まったくだ」

 それは焙煎待ちの常連客と店員との、当たり障りのない会話。
 あの日、明らかにバレンタインの贈り物とわかるようなものを渡していたら、きっとこうはいかなかっただろう、もう少し気まずい感じになっていたはずだ。
 だから、これでよかった。
 しかしそう思いながらも、心のどこかで、まったく別のことを考えてしまうことがある。
 あんなふうに、変な逃げ道なんか作らないで、ちゃんと自分の気持ちを伝えておけばよかったと。

 少しして、焙煎機からカラメルのような香りが立ち始めた。八木さんがちいさく笑って、隅の椅子に腰掛ける。これ以上、彼は店員と会話をするつもりはなさそうだった。
 わたしもカウンターに戻り、中断していた別の仕事にかかる――ふりをする。

 仕事をしているふりをしながら、長い前髪が肉の薄い頬に影を作るのを、そっと見つめた。
 文庫本の文字を追う、深いまなざし。あの青い瞳が追っているのが、文字ではなくわたしであったら、どんなにいいだろう。
 そんなこと、望むべくもないのだけれど。

 わたしの悲しい妄想をかき消したのは、焙煎終了を終わらせる機械の音。

「終わったね」
「はい」

 いつものようにスマートに、八木さんがカードで会計をすませる。
 わたしもいつものように、粗熱の取れたコーヒー豆を、専用の袋に入れて八木さんに手渡す。

 3月14日の、昼下がり。
 店の中には、彼とわたしのふたりだけ。

「そういえば」
「はい」

 八木さんが大きく身をかがめて、わたしの耳元でささやいた。耳孔に直接流し込まれた低温は、いつもよりもずっと、セクシーな響き。

「バレンタインにもらったコーヒー、おいしかったよ。ありがとう」
「!!」
「これは、そのお礼」
「……」

 声も出せず、頬を染めるしかできないわたしに、八木さんが小さな箱を差し出した。
 それは7センチ四方の、小さな白い箱。モスグリーンのリボンが目印のシンプルで美しいラッピングは、この近辺にある、有名パティシエのお店のものだ。

「じゃ、またね」

 白い箱をカウンターに置いて、爽やかに八木さんが微笑んだ。そのまま彼はわたしの言葉を待たずに背を向けて、店の外へと出て行った。

 真鍮のドアベルが、彼が入ってきたときと同様、カランと乾いた音をたてる。

 信じられない思いで、白い箱を見つめた。
 高価すぎず、けれども間違いなく女性受けするお菓子をチョイスしたセンスと、さりげない、けれど効果抜群のお返しの仕方。
 もしかしたら八木さんは、スマートな紳士どころか、遊び慣れているひとなのかもしれない。
 それでも――わざわざ渡しに来てくれたであろう、その気配りが嬉しかった。

 淡い期待と白い小箱を、エプロンのポケットに忍ばせた。
 店の中には、さきほど八木さんが求めたコーヒーの香りが残っている。
 ポケットの中には、白い小箱に入ったお菓子。
 この恋がお菓子のように甘くなるのか、それともコーヒーのように苦くなるのか、まだ、誰にもわからない。

2019.3.14

2019 ホワイトデー

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