幾千の夜と
幾千の朝を

このお話は、2017.3.21に発行した夢本「LOST」(完売)の続編になっております。
「LOST」の内容および結末のネタバレが多分に含まれていますので、あらかじめご了承ください。





 ほのかにかすむ薄月を見上げ、なまえはひとつ、息をつく。
 霞がかったような淡く弱い光を見ていると、記憶を失っていたあの頃のことを思いだす。頭の中に薄い絹の布が引かれたような感覚は、あまり心地の良いものではなかった。たしかに愛した人がいるということを覚えているのに、それが誰だかわからない、不安と焦燥。
 あんな思いは、もう二度としたくない。
 同時に、あの時と同じ思いを、オールマイトにもさせたくはなかった。

 記憶を取り戻し、オールマイトと寝室をともにするようになって以来、眠りにつく前のこのわずかな時間が苦手になった。
 ことに電気を消す瞬間がだめだった。ベッドに入って灯りを落とすその瞬間、暗闇の中に自分が取り残されて、そのままどこかに墜ちていくような気がする。

 暗闇そのものが、怖いわけではなかった。
 先日、仕事に復帰した。己の個性の特性上、暗闇に潜むことも少なくない。そういう時はまったく怖さを感じない。
 ベッドに入る前と入ってすぐの、短い時間だけがだめなのだ。

 理由はわかっている。
 目覚めた時に記憶を失う、それが自分のロストのパターンだったからだろう。
 もちろん、何度オールマイトを忘れても、何度でも彼を好きになる。それには自信がある。
 けれど、どうしても恐れてしまう。夜、眠りにつくまでのこの時間を。

「どうしたんだい?」

 静かな声は、オールマイトのものだ。
 なんでもないの、と答えてカーテンを引く。
 と、いつのまにか真後ろに来ていた彼が、なまえをそっと抱きしめた。

 性行為があろうとなかろうと、オールマイトはなまえを抱きしめながら眠る。彼がなまえに与える抱擁は、常に優しい。
 それでも、このほんの少しの時間、なまえには不安がつきまとう。
 抱きしめられ、落ち着いた柔らかい低音で語りかけられるうちに、鬱屈とした気持ちが徐々に落ち着いてはくるのだが。

 平和の象徴、正義の象徴。そう謳われたひとの側にいるというのに。なんと贅沢でわがままなことだろう。
 外傷後ストレス障害の一種だと医師は言う。
 これがナンバーワンヒーローの元サイドキックとは、情けないにもほどがある。

***

 不安げに月を見上げていたなまえを、後ろからそっと抱きしめた。

「そろそろ眠る?」
「ええ」

 そう答えると、なまえはふふと笑った。細い肩を、わずかに震わせて。

 ベッドに入り、灯りを落とす。
 瞬間、なまえは身体をこわばらせた。
 気づいていないふりをしながら、自分と比べてはるかに小さい身体をそっと抱きしめる。と、なまえは甘えるように、薄い胸に顔をうずめた。

 記憶を取り戻して以来、なまえは眠ることを恐れているようにみえる。
 夜が更けてくると、彼女の様子が徐々におかしくなりはじめる。いや、おかしくなる、という言い方は正しくない。
 自分の中に生じた感情を押し隠すように、なまえは陽気にふるまい、そして微笑む。
 ベッドに入り、灯りを消す時がことにそうだ。
 いつもなまえはほんの一瞬だけ身を強張らせ――と言うよりも、震えをとめるために臍下丹田に力を入れている、と表現した方が近いかもしれない――そのあとにこりと笑うのだった。

 自らの感情や恐れを隠すために笑え、そうなまえに教えたのは自分だ。同時に自分も、同じことを実践してきた。
 けれど、不安を隠すために笑むなまえを見るのは、やはりつらい。

 なまえが本音を漏らさないのは、おそらく自分に気を使ってのことだろう。それをさせてしまっている、自分の未熟さが情けない。
 けれど何を言ったところで、事態が好転しないこともわかっている。
 今の自分にできることは、ただそばにいてなまえが安心できるよう見守り続けることだけだ。

 だからオールマイトは、眠る時、なまえを自分の腕の中に閉じ込める。少しでも、彼女の中に潜む不安を宥めてやれるように。

「わたしたち、いつも寝るときはべったりね」
「そうさ。私はさみしがりだからね。これから先も、何年経っても、こうして二人で眠るのさ」

 オールマイトの言葉に、なまえはまた、笑う。
 口角が上がったままの唇に触れるだけのキスを落として、彼女を抱きながら話をした。
 オールマイトとなまえは、いつもこうして、抱き合いながらベッドの中で会話する。そのまま行為にいたることもあれば、なにもせず、そのまま眠ることもある。
 語る内容は実に他愛ないことだ。けれどこの時間がとても大切であることを、オールマイトは知っている。
 こうしていると、なまえの体から緊張が解けていく。

 やがて、なまえは静かな寝息をたてはじめた。オールマイトはなまえの髪を一房すくい、そこに唇を寄せた。

 少しずつだが、緊張が解ける時間が前よりも短くなっているような気がする。いつかきっと、昔のように怯えずに眠れる日がきっとくる。
 
「愛してるよ」

 漏らした声の、あまりの甘さに苦笑した。

 なにも焦ることはない。
 幾千もの夜を、ふたりはこれからも越えていくのだから。

***

 眠りと目覚めの間にあるとろりとした曖昧な時間を楽しんでいると、ベッドサイドに置いていた目覚ましが鳴った。
 隣で眠る人を起こさないよう、慌ててスイッチを切る。
 時刻は六時。朝食と弁当を作るために、なまえはそっとベッドから降り、キッチンに向かった。

 冷蔵庫の中から朝食と弁当のために仕込んでいた食材を出して、いつものように料理を始める。
 今日の朝食は和。味噌汁におひたし、あじの開きと出し巻き卵。昨夜仕込んでおいた青菜と大根とにんじんの漬物がいい感じになっていたので、それも足すことにした。
 味噌汁の出汁は煮干し、具はシンプルに豆腐とわかめ。
 こうしていろいろ作ってしまうのは、仕事に復帰しても変わらない。もともと作ることと食べることが好きなのだ。このスタイルはずっとこのまま崩したくない。

「おはよう、なまえ」

 お弁当用の鶏肉を焼いていると、長身痩躯があくびをしながらキッチンに姿をあらわした。

「いい匂いだね」
「ありがとう。いま作ってるのはみそ焼きチキン。お弁当に入れようと思って」
「それは楽しみだ」

 言いながら近づいてきたオールマイトが、大きく屈んでなまえのうなじに唇を落とした。

「ちょ…! やめて。びっくりするじゃない!」

 不意打ちの行為に照れながら抗議の声をあげると、彼はすこし嬉しそうにしながら、ゴメン、と笑った。

「今日は和食だね。じゃあ緑茶がいいかな」

 なまえが食事や弁当を作っている間に、オールマイトがメニューに合わせた飲み物をいれる。

 夜の不安が嘘みたいに感じられる、幸せな朝のひととき。
 これからも、ずっとこんな日々が続くといい。
 ふたりで越え、そして迎える。
 幾千の夜と、幾千の朝を。

2017.6.19
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月とうさぎ