目の前で倒れているのは、かの平和の象徴の、変わり果てた姿。
「……ただいま」
と、男、いや、オールマイトがわたしの頭をなで、また血を吐いた。反射的で、わたしの毛が逆立つ。すると彼は、少し困ったように笑った。
「ああ……ごめん」
肩で息をしながら、痩せたオールマイトが続ける。
「驚かせて……しまったね……」
涙がこぼれそうになった。
身体を支えていられないほど消耗しているのに、このひとは、こんなちっぽけな生き物のことを思いやる。自らは、苦しげに血を吐いているというのに。
「大丈夫だよ……こわくない。さっきのあれも、私なんだ……」
オールマイトは手の甲で血をぬぐいながら、ゆっくりと立ち上がった。ふらふらとソファの前まで歩を進めた長身痩躯は、そこでふたたび、どうと倒れた。
大きな身体を無言で受け止めたのは、もちろんわたしではなく、外国製の大きなソファ。
「今日はちょっと、きつかったなぁ……」
天井を見上げながら大きく息をつく、スーパーヒーロー。常の姿からは想像もつかない弱々しいようすを目の当たりにし、わたしは困惑した。どうしたらいいかわからない。もとより、猫の姿のままでは、なにかできようはずもなかった。
しかたなく、にゃん、と一鳴きし、大きな手を舐めた。
「ああ……ありがとう。君はやさしいね」
オールマイトはわたしを片手で抱き上げ、自らの胸の上に置いた。わたしの頭をなでる、大きな掌。
やさしいのは、いったいどちらなのだろう。
しばらくそのままオールマイトは天井を仰ぎ、呼吸を整えていた。かすかに聞こえる、にごった喘鳴。もしかして、呼吸器が悪いのだろうか。
そう思いかけた時、オールマイトがわたしを胸に抱いたまま、しずかに立ち上がった。
「よし、もう大丈夫。回復した」
確かに、息は整ったようだ。声にも力が戻っている。
しかし、先ほどまであんなに苦しげに血を吐いていたのに、本当に大丈夫なのだろうか。
「お風呂に入ってくるからね。それまでいい子で待ってて」
そう言い残し、オールマイトは浴室へと消えた。
この家から逃げられなかった、理由がわかった。いくら猫の動体視力や運動能力が人のそれより勝っていても、比べていたのは常人のそれだ。オールマイトからすれば、子猫の動きをとらえることくらい、造作もないことだったろう。
また、彼がオールマイトであるならば、人の姿に戻っても、おそらく危険はないだろう。英雄様も男だと言われればそれまでなのだが、あれだけの地位にあるヒーローだ。ハニートラップをもちいる敵と遭遇したことは、一度や二度ではないはずだ。
オールマイトにとって、裸の若い女が目の前に現れることは、逆に警戒の対象になるだろう。少なくとも、わたしの貞操に危険はないと思われる。
だから、彼が浴室から出て来たら、人に戻りすべて話そう、そう思った。
『それにしても……』
オールマイトのあの変貌は、いったいどういうことなのだろう。オールマイトの個性は謎に包まれているが、あの姿もまた、個性のなせるわざなのだろうか。
増強系で、個性使用時だけ筋肉が膨れ上がるのか。それとも、強すぎる力の反動で、個性使用後は身体が萎んでしまうのだろうか。
いや、と、わたしは頭を巡らせる。
先ほどのオールマイトは、消耗している様子はあったが、怪我はしていないようすだった。
見えない部分にダメージを負っていたのだとしても、息を整えてすぐ入浴という選択はありえない。とすれば、彼の吐血もしくは喀血は、日常的なものなのかもしれない。
もしそうであったなら、個性がなんであれ、オールマイトの身体は――。
かつて一世を風靡した世界的カンフースターの身体が、実はぼろぼろであった、という話を聞いたことがある。無理な撮影のせいで骨折を繰り返していた彼は、日々、痛みに苛まれていたと。
それでもその俳優は、笑顔でアクション映画を撮り続けた。何故なら彼は、世界一のカンフースターなのだから。
もちろん、アクション俳優とヒーローでは、肉体酷使のレベルが違う。そもそもの身体能力も違うだろう。けれどもし、オールマイトが、かのカンフースターと似たような状態であったとしたら。
『血を吐き、身体をぼろぼろにしながら、オールマイトは笑顔で戦う。何故なら彼は、平和の象徴なのだから』
そうひとりごち、全身が震えた。
これはきっと、神様がくれたチャンスだ。
この『痩せたオールマイト』という題材は、今の状況を打破するきっかけになるかもしれない。もちろんそれを悪用する気もなければ、ノンフィクションのライターのように事実をそのまま書くつもりもない。
作家というのは、人の本質を描き出す職業だ。稀代の英雄の抱える事情や真実には、おそらく深いドラマがある。私は、それを知りたい。それだけだ。
もう少し、もう少しだけ、この姿のまま、オールマイトのそばで彼を見ていてもいいだろうか。
「お、いい子にしていたね」
オールマイトがバスルームから戻ってきた。彼は素肌にバスローブをまとっている。そこからのぞく、枯れ枝のような長い手足。けれども痩せたオールマイトからは、なんともいえない色香がただよう。彼が『オールマイト』として活動している時の、明るく健康的なセクシーさではない。それはどこか、退廃的で儚い色気。
だが次の瞬間、わたしはオールマイトの胸元を見て凍りついた。
はだけたローブからのぞく、放射状の大きな傷跡。それは新しいものではない。けれど、そう古いものでもない。ケロイド状の、ひどく痛々しい傷。
わたしは自分がさきほど立てた仮説が、そう違ってはいないと確信を持った。
「ん。なにを見ているんだい?」
オールマイトが、わたしをやさしく抱き上げた。至近距離に、放射状の傷痕がある。どうしていいかわからなくなって、わたしはその中心をぺろりと舐めた。
「……っ……!」
びく、と、オールマイトが身を強張らせた。痛かっただろうか。そっと舐めたつもりだけれど、猫の舌は、存外ざらついているから。
「もう、びっくりするじゃないか。いたずらっこめ」
オールマイトが傷口を隠すように、ローブの前をあわせた。だがしかし、非難の声はやわらかだ。やさしい瞳でわたしをみつめながら、彼は続ける。
「それにしても、誰かが出迎えてくれるというのは、いいものだな。たとえ猫でも。ねえ、君、ずっとうちにいてくれてもいいんだよ」
そうつぶやいたオールマイトが、急に眉を寄せた。なんだろう、と、彼の視線を追う。すぐに、その理由がわかった。青い瞳が見つめているのは、ペットボウルだ。
「ああもう、ぜんぜん食べていないじゃないか……」
つづいて聞こえる、大きなため息。
「これじゃあお腹もすくだろうに。君はいったい、なんなら食べてくれるんだい?」
人と同じもの、と言うわけにもいかず、にゃあ、と鳴いた。
「……しょうがないなぁ……」
わたしを優しく床におろしたオールマイトは、キッチンへと向かう。わたしは猫らしく、彼にじゃれつきながらついてゆく。
オールマイトは冷凍庫からフリーザーバックを取り出し、そこから綺麗にラップで包まれた肉を一本選んで、――我が国一の英雄は、意外にもマメらしい――電子レンジに放り込んだ。
スイッチを押して、待つこと数分。
「あちち……」
オールマイトが過熱していたのは、ささみだった。細かく裂いてさましたそれを、彼は掌にのせ、わたしの前につきだした。
「これなら、どうかな?」
『ありがとう』
かえした応えは、もちろん猫の鳴き声。彼の手のひらの上にある肉片を口にして、ゆっくりと咀嚼する。
実はささみは大好物だ。猫の身体の時は、これが一番おいしく感じる。
「お、これなら食べてくれるんだな。いいぞ。もっとお食べ」
オールマイトが満足そうに笑んだ。
「本当はキャットフードのほうがいいんじゃないかと思うけど、君、ミルクとお水しかとってくれないからな……」
お礼のかわりに、にゃーん、と、また、鳴いた。
***
「おはよう、猫ちゃん」
微笑みながら、オールマイトがわたしを抱き寄せた。彼のベッドで目が覚めるのは、もう四度目だ。といっても、わたしは猫のままだから、色っぽいことはなにもない。
猫の時と人の時とでは感覚が違うとはいえ、男性に触れられるのは抵抗がある。同じベッドで眠る事もまた同様に。けれど不思議なことに、わたしはオールマイトと身体を寄せ合うことを、不快に感じたことはない。
「さて、ご飯にしようか」
マメな英雄様は、いつものように、加熱して裂いたささみとミルクをくれる。
その後、本人もサイフォンで淹れたコーヒーを飲みながら、朝食をとる。スーパースターの本日の朝食は、厚手のトーストとスクランブルエッグとカリカリに炒めたベーコン、グリーンサラダ、そしてフルーツとスープ。
男性の一人暮らしの朝食にしては、手がかかっている。わたしが普段食べている朝食よりも、よほど豪華だ。
わたしたちが朝食を食べ終えた頃、オールマイトの携帯端末が鳴り響いた。続いて流れる、出動要請。
穏やかだった彼の表情が、瞬時にしてトップヒーローのそれへと代わった。要請を受けた彼が、ヒーロースーツに着替えてベランダから戸外へと飛び出すまでに費やした時間はわずか数秒。
今日は久しぶりのオフだと言っていたのに、トップヒーローには、休日もない。
「んん……」
身体を伸ばしつつ、広いリビングで人の姿に戻った。室内は快適な温度に保たれていたが、裸で過ごすにはさすがに寒い。くるくると毛布を体に巻きつけ、そのままソファに身体をあずけた。
たった数日だが、オールマイトと暮らしてみてわかった。彼はほんとうにぼろぼろだ。少量ではあるものの、オールマイトは毎日血を吐く。それだけでなく、食後すぐに、倒れ込んでしまうこともあった。
それなのにオールマイトは、何事もないような顔をしてヒーロー活動を続けている。これからも彼は人を救け、そして誰にも知られることなく、血を吐き続けるのだろうか。そう思ったら、胸が痛んだ。
「だめだ……」
ちいさく、ひとりごちた。
これ以上、わたしはここにいてはいけない。
英雄が隠し続けている真実は、作家としてそそられるものがある。が、人として、超えてはならない一線がある。取り返しがつかなくなる前に、気づくことができてよかった。
オールマイトが帰宅したら、本当のことを話そう。心の底から、そう思った。
***
くれないに燃える夕日を背に、オールマイトがベランダから帰宅した。
今日の彼は体力が残っているようだ。痩せた姿にはならず、ヒーロー活動時の姿のまま、優しくわたしを抱き上げる。
「ただいま、猫ちゃん」
おかえりなさい、と、猫の言葉でいらえる。
でも、どうしよう。本当のことを話すつもりでいたけれど、いくらなんでも男性の腕の中で、人の身体に戻るわけにはいかない。
だからもう一度、にゃあ、と鳴き、彼の腕の中から飛び出して、ブランケットの中にもぐりこんだ。
「おや。隠れるなんて、悪い子だな」
聞こえてきた声は、常よりも硬い、毒を含んだものだった。
ひどく、嫌な予感がした。
「で、君はいつになったら本当の姿を私に見せてくれるのかな? 悪い子猫ちゃん……いや、みょうじなまえさん」
ブランケットから顔だけを出し、オールマイトを見上げた瞬間、名を呼ばれ、声をなくした。
オールマイトは、静かに笑んでいる。けれど、その目が笑っていない。それどころか、青い双眸から放たれているのは、射抜かれるような鋭い光。
「おかしいと思っていたんだよね。キャットフードは食べないし、トイレを使用した形跡もない」
『……』
「だから、調べさせた。簡単だったよ。動物に変身できる個性の持ち主を、探すだけでよかった」
彼はゆっくりと続ける。
「とぼけても無駄だよ。証拠はそろっている」
オールマイトはわたしの前に、数枚の書類を差し出した。そこに記されているのは、わたしの個人情報の数々だ。
あまりの恐怖に、全身の毛が逆立っていた。
わたしを怯えさせたのは、正体がばれてしまったからではない。オールマイトの発している、ある種の雰囲気のせいだった。それはオーラ、あるいは闘気と呼べるもの。
わたしの中の猫……獣の本能が、それを察知し、そして動けなくなった。逃げることはおろか、まばたきひとつできない。
するとオールマイトが、唐突に微笑んだ。それは先ほどまで彼が浮かべていた作り笑顔ではなく、やわらかい印象を残すもの。
「怖かったかい?」
やっとのことで小さくうなずく。オールマイトが、また笑んだ。
「でもね、今すぐ人の姿に戻ってもらわないと、話もできない。いまなら、君のしたことは私しか知らない。理由によっては、見逃してあげることもできる」
にゃ……と、やっとのことで声を絞り出し、人の姿に戻った。ブランケットで身体を隠しながら。
「ごめん」
と言いながら、英雄様は自らの目元を片手で覆いながら、うしろを向いた。
「そうか。猫は服を着ていない。人に戻ったら、当然そうなるな」
「はい……」
「なにか着るものを用意するから、待って」
オールマイトはすぐに、上質なフランネルのシャツを用意し、わたしに手渡した。
「私はうしろを向いているから、着ちゃって。気がつかなくてすまない」
「……お気遣い、ありがとうございます」
手渡されたシャツを羽織り、ボタンをとめた。
平均的な身長のわたしとオールマイトとでは、当然ながら体格差がある。彼のシャツをわたしが着ると、ゆったりとしたシャツワンピースのように見えた。フランネルは生地がしっかりしているから、身体の線が透けて見えることもない。
着ました、と告げると、オールマイトがこちらを向いた。
「さて、お嬢さん。話をしようか」
「……わたしを警察に突き出しますか」
「そうしたいのはやまやまだけど、弱ってた君をここに連れてきたのは、私なんだよね」
「……」
「しかも、君は一度逃げようとした。それを捕まえて部屋に戻したのも、また私だからね。それに君が人の姿に戻らなかったのは、男の一人暮らしの家で全裸になる危険性を考慮したからだろ?」
「………………いいえ……確かにそれも理由のひとつではありますが、わたしの中に、オールマイトさんの真実を知りたいという、いやらしい気持ちがありました」
するとオールマイトは、軽く眉をあげた。
おいおいまじかよ、と呟きながら、彼は肩をすくめて両の手のひらを上へと向ける。オールマイトお得意の、アメリカナイズされた仕草。
「この状況で、それは普通、言わないよな」
「でも、本当のことですから……」
「でも君、そんなこと言ったら、捕まっちゃうよ?」
オールマイトがさらりと告げた。しかしその声音は、どこか面白がっているような響きがある。
「捕まるのは困りますが、オールマイトさんの家に黙って居座っていた以上、本当のことを言わずに許してもらおうと思うのは、虫が良すぎる気がします……」
わたしがオールマイトの真実を知りたいと思ったのは、たしかなのだ。あの時は神様がくれたチャンスなどと思い込んでいたが、過ちだったといまならわかる。あれは、悪魔のささやきだった。
そう思いながら下を向いていると、オールマイトがおかしそうに笑いだした。
「無駄に正直なひとだな。君は」
「……わたしはどんな罪になるんでしょうか」
「うーん。まず、無資格での個性使用については、厳重注意ってところだろうね。二日目以降、猫の姿のままうちに居座ったことについては、私しだいかな」
「オールマイトさん、しだい」
「私が訴え出れば、君は、甚だまずいことになるだろうな」
オールマイトが、わたしを見つめた。先ほどの射抜くような眼とは違う、すべてを見透かすような、透き通った瞳。
この青い瞳に魅せられた人間は、いったいどれだけいるだろう。
「でも、いいよ。許す」
「えっ?」
「うん。君は正直な人だから。それに、今まで敵と接触したこともないようだし、生活状況や家庭環境も、すべてクリーンだったから」
そんな簡単に、と言いそうになり、そうではない、と思い直した。
目の前の書類が証明しているように、オールマイトはすでに、わたしの個人情報をすべて把握していることだろう。
それに『オールマイトの真の姿』を、わたしがどこかにリークしたところで、それをかき消すことなど、このひとにとってはたやすいことだ。証拠写真があるわけでもない。
だからこその、この余裕。
「君が私の現状をどこかに売るつもりだったら、真実を知った日に、それなりの行動を起こしていたと思うんだ。でも君は、うちのパソコンやタブレットはおろか、電話も使わなかったろう? 君の携帯端末の履歴も調べさせてもらったが、私と出会った日の昼以降、使用はされていなかった」
やはり、そこまで調べているのか。オールマイトは口に出さなかったが、自宅のパソコンの通信履歴も、きっと調べられているだろう。
ナンバーワンヒーローは、そう甘くはないということだ。
「それに、冷蔵庫の中の食べ物も手つかずだった。家の中の他の部屋の扉や、リビング内の引き出しを開けた形跡もない。だから、君は信用できると思ったんだ」
「……」
「ま、棚に出しっぱなしにしていたカップ麺は、減ってたみたいだけど」
「すみません。カップ麺のお代は、後でコンシェルジュを通してでもお返しするつもりでした」
「いや、あれはスポンサーにもらったものだから、そのままでいいよ。ただ……」
と、オールマイトは微笑みながら続ける。
「ただ、約束して欲しいことがある」
「はい」
「私のことを、誰にも話さないこと。そして、小説にも書かないこと。」
「はい……」
「それから、しばらく君には監視がつくよ。それは甘受してもらいたい」
「わかりました」
さて、と、オールマイトが立ち上がった。
「では、家まで送っていこう。その格好じゃ寒いだろうから、これを羽織って」
オールマイトがわたしに手渡したのは、背に桜の花びらが刺繍されたスカジャンだった。これもわたしが着ると、コート並みの丈になる。
「最後にひとつ、教えてください。あなたは、その身体で戦うことが、怖くないんですか」
「自分の身体がどうなるかは、別になんとも思わないよ。ただ、そうだな……象徴を失った世の中がどうなるかと思うと、とても怖いね。だから私は、笑いながら挑むんだ。この身が象徴であり続ける限り」
穏やかだけれど、強い意志を含んだ声だった。
恥ずかしい、と思った。ゴーストライターになるか迷っていたことも、このひとの秘密を探ろうとしていたことも。
こんな身体で世界を救っているひとがいるのに、弱音は吐いていられない。
ゴーストの仕事は断ろう。あせらず、自分の書きたいものを表現しよう。たとえまったく売れなくても。今の出版社から、見捨てられてしまったとしても。
「じゃ、行くよ」
そう言って、オールマイトはわたしを横抱きにした。驚きの声をあげる間もなく、わたしを抱き上げたまま、ベランダから飛び立った。
眼下に広がる、くれないに染まる街の景色。
六本木から麻布十番は、人の足なら歩いてすぐだ。それがオールマイトであれば、なおのこと。
びゅう、と、風が鳴ったかに思えた次の瞬間、わたしたちはすでに通りを越えていた。あっという間に、ロボットとトーテムポールの公園が、後方へと過ぎ去ってゆく。
そしてすぐに、童謡で有名な女の子の像が見えてきた。
と、その時、ぽつりと頬に雨があたった。オールマイトと出会った時と同じ、凍りつきそうな、つめたい雨。
「おっと、降ってきた」
小さくつぶやき、オールマイトはわたしの住むマンションのエントランスに降りたった。
「それじゃあ」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「いや、君と過ごせた数日は、それはそれで楽しかったよ」
呟いた声は、低くやさしいものだった。
きっとこのひととは、もう二度と会うことはないだろう。そう思うと、少し、いや、かなりさみしい。
猫としてこのひとと暮らせた数日間は、わたしにとっても、とても幸せなものだったから。
「またね」
しずかな低い声と共に、彼は飛び立っていった。
おそらくはサービスで「また」と告げてくれたであろう、きさくで優しいオールマイト。凍雨のなかに消えていった彼は、きっとこれから先も、人知れず血を吐きながらこの世を支え続けるのだろう。
ぽつりぽつりと落ちてくる氷のような雨を見つめながら、密かに願う。誰よりも優しくて強いあの人が、少しでも安らかでいられますようにと。
2018.8.9
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