Poison Lady

 湿気を多分に含んだ熱い夜風が、枯れ枝のように乾いた肌の上を通り過ぎる。こんな日は、潤いがほしい。軽く一杯、そんな気分にさせられる。

 この身体になって以来、酒はほとんど飲めなくなった。が、酒場の雰囲気は嫌いではない。
 落ちつける隠れ家のような店を探し続けて数か月、やっと、好みのバーをみつけた。
 黒の大理石でできたバーカウンターと、革張りのスツール。カウンターの向こうには、ボウタイをつけたバーテンダーが二人。彼らの後ろの棚には、酒瓶がずらりと並ぶ。流れるのは、静かなジャズだ。まさに大人のための、大人の店。

「サラトガ・クーラーを。シュガーシロップはなしで」

 私の注文に、初老のマスターが無言でうなずく。
 サラトガ・クーラーは、ジンジャー・エールにライムを加えた、ノンアルコールのカクテルだ。ここのマスターは真のプロフェッショナル。酒が飲めない客にも、接客態度を変えたりしない。まさにバーテンダー、彼は優しい止まり木だ。
 それだけではない。マスターの作ってくれるものは、アルコールの有無を問わず、どれも美味い。それも、私がこの店に通い詰めるようになった、理由のひとつだった。

 流れるような動作で作られた美しいカクテルが、音もなく置かれる。
 ああ、やはりこの店はいい。そう思いながらグラスに口をつけた、その時だった。

 店内にいる男たちの視線が、さりげなく動いた。
 男たちの視線を釘づけにしたのは、いましがた店に足を踏み入れた、整った顔立ちをした若い女だった。ゆるりと巻かれた髪と、シンプルなワンピースに包まれた均整のとれた肢体が、実に魅力的だ。
 私はこの女、いや、少女を知っている。

 みょうじなまえ。
 私がその名を初めて耳にしたのは、職員会議の席でのこと。

***

「みょうじは、もう除籍でいいんじゃないでしょうか」
「三年で除籍とは……あまりにも酷というものだ」

 除籍を勧める声に、三年B組の担任が慌てた声を出す。
 対象者は春の仮免試験をエスケープ――本人は病欠と言い張っているらしいが、おそらくは嘘だろう――した問題児。それでも彼女が二年生であれば、病欠だろうが仮病であろうが、このエスケープはたいした問題にもならなかっただろう。なぜなら他校の二年生は、春ではなく、秋の仮免試験に照準を定めているからだ。雄英生は一年時で仮免を習得する者がほとんどだが、それでも、取り戻せない遅れではない。
 けれど、彼女……みょうじ少女は三年生。この時期になって仮免許を習得できていないということは、かなり不利、いや、致命的と言ってもよかった。
 Plus Ultraを校訓とする我が校では、やる気のない者は除籍とされる。決して珍しいことではなかった。

「酷もなにも、この時期に来て仮免を受けもしないんだから、意欲がないということでしょう」
「とにかく、本人にやる気がないんだから、どうしようもない」

 除籍をすすめる声に、担任が食い下がる。

「ではせめて、普通科への転科措置を……」
「学年が上がる時ならいざ知らず、それこそ三年のこの時期に、うちにこられても困る」
「普通科の生徒は、すでに受験体制に入っています。座学の成績が良ければ検討もしますが、ヒーロー科でこの成績では……。普通科に転科しても、本人がつらいだけではないでしょうか」

 反論したのは、普通科の教師だ。さもありなん。進学希望者の多い普通科にとって、この時期にきてヒーロー科のお荷物を押し付けられることは、迷惑でしかないだろう。
 続く争いの声を聞き流しながら、私は議題の中心人物であるみょうじ少女の評価表に視線を移した。
 みょうじなまえ。ヒーローネーム、ポイズン・レディ。個性、毒。
 たしかに、一年の後半から現在にかけての成績はひどいものだ。座学も実技も、毎回、合格ラインぎりぎりの点数。
 しかし、入試時から入学当初の成績を見て驚いた。どちらも、悪くないどころかトップクラスだ。殊に入試の成績は、学年で4位。体育祭でもそれなりの成績を残している。
 みょうじ少女が授業を休みがちになったのは、一年の秋からだ。成績が落ちたのも、ほぼ同時期。おそらく、その秋に、なにかがあったに違いない。

 なるほど、と個性の項目をもう一度眺め、考えた。この子の個性は、身体からさまざまな毒を放つもの。それも『毒粉』だ。強個性ではあるが、拡散性もあり、周囲を巻き込む可能性がある。
 そういった個性は、使いどころが難しい。我々ヒーローは、たとえ相手が敵であっても、対象を生かして捕らえることを主とするからだ。ましてや、一般市民を巻き込むなど、もってのほか。
 おそらくこの子は、最初の仮免試験では実力が出しきれなかったに違いない。仮免試験に落ちて、心が折れた。おそらく、そんなところだろう。
 もっとしたたかにならなければだめだ、と思った。
 現場に出たら、絶望させられることなど山ほどある。それら障害を乗り越えて、人を救け、悪を挫く。それが我々、職業ヒーロー。
 一度の失敗で諦めてしまうようでは、ヒーローにはなれない。あまりにも弱いメンタルだ。

 だが、ひとつ不思議なことがある。

 この時期にきて仮免を習得できないような生徒は、夢をあきらめきれず必死に努力を続けるか、学校をやめてしまうかのどちらかだ。
 けれどみょうじ少女は、そのどちらでもなかった。夜毎繁華街で遊んでいるという情報はあるものの、出席日数は足りている。座学も実技も点数はギリギリだが、赤点はひとつもない。
 たいてい進級が危うい生徒は、試験のたびに赤点をいくつか取り、補習の世話になるものだ。だがこの子は違う。
 私には、みょうじ少女が除籍にならないギリギリのところで、うまく調整しているように見える。けれど、やる気も、努力のあともみられない。ヒーローになる気がないのに、調整までしてヒーロー科にしがみつく理由がわからなかった。

 結局、その日会議では、みょうじなまえは秋の仮免に落ちたら除籍、というところでおさまった。

***

 高校生とは思えぬ慣れた仕草で、ポイズン・レディがスツールに腰掛ける。本当に、こうしていると、未成年にはとても見えない。

「ジンライムを」

 と、彼女は低めのアルトで、そう注文した。

 これは、だめだ。私の目前で、生徒に飲酒をさせるわけにはいかない。
 さりげなく、隣の席へと移動する。と、その時、ふわりと艶めかしい華やかな香りが漂った。これはかつて一世を風靡したという、毒と言う名のトワレの香り。印象的で主張が強い、個性のある香水だ。
 オーセンティックバーに、この香り。背伸びするのにもほどがある。だが、その選択は突き抜けていて面白い。

 隣に座った私に一瞥もくれず、みょうじ少女はバッグから煙草を取り出した。完璧な無視とその仕草が、見事にさまになっている。彼女が二十歳の女子大生であったなら、感嘆の口笛でも吹いてやるところだ。けれどみょうじ少女は未成年。まったくもって、これもアウトだ。
 煙草に火がついた瞬間、私は教師として、彼女に退学を言い渡さねばならなくなる。
 それだけではなく、ヒーローとして、そしてひとりの大人として、未成年の喫煙を見逃すわけにはいかなかった。

 細身の紙巻をみょうじ少女が口にくわえた瞬間、私はそれをとりあげた。ジンライムもまた、同様に。毒の淑女は一瞬あぜんとし、そして次に、怒りをこめた目で私を睨んだ。
 ほう、と思った。その眼は実に、悪くない。

「返してもらえない? あなたがとった煙草とお酒、わたしのなんだけど」
「マスター。申し訳ないけれど、こちらのお嬢さんにサマー・デライトを」

 怒りを含んだ声にはいらえず、初老のマスターにそう告げた。

「どういうつもり? わたしを口説きたいなら、もう少しスマートにやってほしいんだけど」
「君を口説くつもりはないよ。煙草は二十歳になってから。お酒もそうだね」
「……ッ……」
「君、未成年だろ」
「なに言ってるの?」

 みょうじ少女が、身体を強張らせた。
 大人っぽく見え、初めての酒場でこれだけ堂々と振る舞える子だ。未成年であることを見抜かれたことなど、今までなかったに違いない。
 しかしこの程度のゆさぶりで動揺を表に出すとは、やはり、精神的に脆い。使い方は難しいが、強い個性を持っているのに、もともとの身体能力も地頭も悪くないのに、もったいないことだ。

「大人っぽく見せているけれどね、君は未成年……しかも高校生だ。あたりだろ?」
「どうしてそう言い切れるの?」
「わかるからだよ。それ以上はノーコメント」
「……」

 ここで余計なことを言わなかった彼女の判断は、実は、そう悪くもない。個性には、いろいろある。人の意識をコントロールできるものや未来を読み取れるものがいるならば、個人情報を読み取る個性を人間がいても、なんらおかしくはない。
 もし私の個性がそういったものだったとしたら、なにを言っても無駄になる。

 担任の話によれば、彼女は一年の仮免許試験の時も、風の個性持ちと対峙し、毒の拡散を恐れて動けなくなったと聞く。判断力のない者であったなら、自身の合格だけを考え、個性を発動したことだろう。そうしていたら、たとえ弱毒であったとしても、かなりの数の受験者に被害が出たはずだ。しかし、この子はしなかった。
 この子にはヒーローに必要な、分析力や判断力がある。だが残念なことに、そこで止まってしまっていて、先に進む気力がない。それではだめだ。雄英生なら乗り越えて行け。
 それこそが、Plus Ultraの精神だ。

 そこまで思って、私は自分が、この子を除籍寸前の生徒ではなく、ひとりのヒーロー候補生として見ていることに気がついた。

「お待たせいたしました」

 マスターが、彼女の目の前にグラスを置いた。ライムが飾られた、淡いオレンジ色の、美しい飲み物。

「これはなに?」
「サマー・デライト……夏の喜びという名の、ノンアルコールのカクテルだ」
「わたし、ジュースを飲みに来たわけじゃないんだけど」
「まあ、そう言わずに飲んでみたら?」

 みょうじ少女はしぶしぶグラスに口をつけ、そして顔をほころばせた。年齢よりも幼くみえる、その表情。

「おいしい……」
「それはよかった」

 いらえると、彼女が挑むようにこちらを見やった。
 ああ、と、気がついた。この強気な視線のその奥底には、表面で見えるものとはまったく違う感情が潜んでいると。
 それは怯えだ。この子はなにかを恐れている。

「あなた、なにもの?」
「さあね」
「刑事かなにか?」
「いや」
「じゃあ、邪魔をしないでもらえる?」
「君が高校生である以上、酒と煙草に関してはそうはいかない。本来ならば、こういった場所に出入りするのも、禁じられているはずだろう? でも今夜は特別だ。そのサマー・デライトを飲み干すまでの短い時間だけなら、目をつぶるよ」
「……」
「そのかわり、それを飲んだらまっすぐ家に帰って、いい子で寝ること」
「子ども扱いしないで」
「高校生は、おとなじゃないだろ」
「それでも、男と寝ることくらいはできるのよ。偉そうなことを言ってるけど、あなただってそれが目的なんじゃない?」
「冗談だろ? ま、添い寝くらいならしてあげてもいいけどね」
「添い寝?」

 大人っぽいといっても、高校生は高校生だ。未成年をそういう目で見る趣味は、私にはない。……ないはずだ。

「君はどうして、ここに来たんだい?」
「どうだっていいでしょ」
「言いたくないなら、詳しい事情はきかないけれどね。不良娘の夜遊びには、それに相応しい場所があるだろ、たとえば」

 近くにある大箱の名前をあげると、そこで遊んだこともある、と、つまらなそうないらえが帰ってきた。

「楽しくなかった?」
「そうね。刺激的だったけれど、たいして面白い場所でもなかった。それに、ひとりでいるとやたらと声をかけられるの。でもあっちもこっちもたいしてかわらない。現にいま、あなたみたいな人にひっかかってるし」
「なるほど。確かにそうだ」

 一本取られた、と笑うと、彼女は軽く、目を細めた。

「君は、楽しめる場所を探してるのかい?」
「そうかもしれない」
「まあ、今の君はどこにいっても満足なんかできないと思うよ」
「……どういう意味?」
「逃げてるからさ」
「やっぱり、そういう個性のひとだったのね。……ってことは、わたしがどこの学校の生徒かってことも、わかってる」
「ウン。君は雄英生だね」

 しずかにうなずいたのを見て、直感した。
 この子が恐れているのは、努力しても結果を出せなかった時の絶望だ。
 だから、努力しない。わたしはまだ本気を出していないだけ。成績が悪いのも、きちんと授業に出ていないから。そう言い訳をすれば、自分に対する面目は立つ。それは肥大化した、かなしい自尊心。
 けれどどんなに言い訳をしたところで、現状はかわらない。それでも夢をあきらめられず、ギリギリの成績で、彼女はヒーロー科の末席にしがみつく。
 愚かなことだ。
 だが、見た目よりずっと幼く傷つきやすいであろうこの少女の力になりたいと、ひそかに思った。

「あんまり野暮なことは言いたくないけどね、楽な道を選ばず、後悔しない道を行くことだよ」

 けほり、と小さく咳込んでから、続けた。

「もう一度だけ、全力を出してみたらいい。諦めるのはそれからだ」
「……わかったようなことを言うのは、やめてくれる?」
「ん。まあ、そうだな。だが、ほっとけなくてね」
「どうして?」
「その香りのせいだよ」
「かおり?」
「若い子がブランドものの香水に憧れたとしても、普通はもう少し無難な香りを選ぶだろ。流行りもあるし。でも、君は違った」

 どう答えればいいかわからないのだろう。少女がだまったまま、手元のカクテルを傾けた。
 夏の夕焼け空のような、美しい色のノンアルコールのカクテルは、この少女によく似合う。オレンジエードほど健康的でもなく、かといって、ジンやラムほど退廃的でもない。適度な色気と、適度な健やかさを併せ持った、大人と子供の境目にいる、美しいヒーローの卵。

「どうせ背伸びするんなら、それくらい思いきったほうが突き抜けていて気持ちがいい。思いきりのいい君は、きっといいヒーローになるだろう」
「なにも知らないくせに」
「ン。でもね、私にはわかるんだよ」
「いいかげんなことを……」
「あともう一つ。君はね、その香りが似合う、いい女になると思うよ」
「その時になって、慌てて口説いても手遅れだからね」
「だろうな。残念だよ」
「そう思うなら、今、口説いてみたらいいのに」

 挑むような視線をうけ、一瞬、理性がゆらぎかけた自分に驚く。
 だからごまかすように、ちいさく笑んだ。

「わかってるわ。お尻の青い子どもには興味がないんでしょう?」

 さみしげにそう呟かれた瞬間、思わず、腕を伸ばしかけた。

 この子はまずい。
 挑発的な態度でいたかと思えば、次の瞬間には天使のように微笑み、また時に捨てられかけた子猫のように不安な表情を見せる。
 遅行性の毒がゆっくりと回るように、この少女は、私の中に侵食してくる。このままここで話していては、甚だまずいことになる。そんな気がした。

「さあ、もう帰りなさい」
「わたしが、このまままっすぐ帰るとでも?」

 立ち上がりながらも向けられた視線は、悪女のように挑発的だ。けれども瞳の奥底に、怖いと震える子供の君も、また見える。強気な仮面の裏に隠された、弱さと脆さ。
 みょうじ少女。ほんとうに、君のそういうところ、嫌いじゃない。
 
「うん、君はそうすると思うよ」

 そう答えると、みょうじ少女はしずかに目を伏せ、予想通り、扉の外へと身体をすべらせた。そのまま雑踏の中へと消えてゆく後ろ姿を、しずかに見送る。

 ポイズン・レディ。君が、とても気になる。
 だがこの感情は、男としてのものではなく、一指導者としてのもの。君がヒーローになれるよう、手助けをしたい。
 けれどそれも、今のままの君ではだめだ。
 君の一番の課題は、メンタルの弱さだ。まず君は、肥大した自尊心を倒せねばならない。
 私が君になにかできるとすれば、それからだ。

 雛が卵から孵るように、君も、いつまでも卵のままではいられない。殻から出られず死んでしまう雛になるのか、殻を破って成長するのか、選択できる最後の機会がこの夏だ。
 未だ幼い、毒の淑女。
 次に会った時、君はいったい、どちらの道を選択しているのだろうか。

2018.9.2 (初出 8.19)

夢道楽で頒布した「オケアノスの娘」のペーパーにつけたSSと、ほぼ同じものです。
夢本「Sillage」収録「真夏の夜の毒」の、オールマイト視点のお話。
こちらのふわっとした続き(進展はない)的なお話が、「オケアノスの娘」表題作になります。

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月とうさぎ