もくろみ
〜月下香の花言葉〜

 広大な敷地を誇る雄英高校には、小さな森がある。
 赤く色づき秋の風情を感じさせるその森を分断するように続く小路は、あのひとのランニングコース。
 わたしは向日葵のように、彼のおとずれをここで待つ。

 エリート揃いの雄英高校でドロップアウトしかけた生徒、それがわたしだ。
 除籍にならないようギリギリの成績を保ちながら、夜な夜な街に繰り出し遊ぶ。自堕落でお気楽で、そして空虚な日々。
 そんな中、少し背伸びして入ったオーセンティック・バーで、わたしは一人の男と出会った。夏の初めのことだ。
 ひどく痩せた大男との、ただ一度だけの邂逅。一言二言会話を交わした、それだけなのに、わたしはその日から彼のことが忘れられなくなっていた。それほど印象深い男だった。
 その男がオールマイトだったと知ったのは、神野の悪夢と呼ばれる事件。敵に向かって拳を突きだす痩せたオールマイトの姿を見た瞬間、わたしのなかでなにかが弾けた。

『もう一度だけ、全力を出してみたらいい』
 ちっとも減らないジンライムを片手に、痩せたオールマイトがわたしに告げた言葉。それに従ってみようと思った。

 雄英はやる気のない者に対しては厳しいが、努力する者にはこたえてくれる。国内最高峰と謳われるゆえんだ。
 補習や個人補講など先生方の協力もあって、わたしは先日行われた秋の仮免試験に、無事合格することができたのだった。
 個人的な補講の依頼に対し、見込みのない者はすぐに除籍することで有名な相澤先生までもが快く協力してくれたのが、少し意外だった。

「……きた」

 オールマイトの姿が見えてきた。黄金色の髪をひるがえし駆けてくる、太陽神さながらの英雄。彼はそのまま、こちらに向かって軽く右手を挙げた。

 ああ、と、大きくため息をつく。
 おそらく今の行動は、わたしに対してなされたものだ。なぜならオールマイトは、わたしがここで彼の訪れを待っていることに、気づいているから。
 だからといって、彼がわたしに気があるというわけではない。おそらくはただのファンサービス。自分の人気をよくわかっている彼の、いつものパフォーマンスのひとつ。

 オールマイトにとって、こんなことはなんでもない、よくあることなのだろう。女子高生から憧憬とも恋ともつかぬ、淡く甘い感情を寄せられることは。
 それだけに彼は、わたしの気持ちを深刻視していない。スーパースターに対する一過性の淡い憧れだと、そう受け止めているに違いなかった。

 親と同じくらいの年齢の、女性には不自由していないだろう、オールマイト。
 自分が人気者であることを誰よりよく知る、オールマイト。
 彼に焦がれる女性は、それこそ星の数ほどいる。

「最悪ね」

 そうつぶやいて見上げた先には、あの日のサマー・デライトと似た色の空がひろがっていた。

***

 毎朝、わたしは学校の敷地内を通る小路を走る。これもまた、わたしの日課のひとつ。
 いつもは誰もいない小路。だが今朝はそこに、なぜかオールマイトがいる。
 内心の動揺を悟られないようにするのが、精いっぱいだった。

「やあ、みょうじ少女」
「……おはようございます」

 「いつもは夕方なのに、今日は珍しいですね」と言おうとして、やめた。気づかれているからと言って、わざわざ言葉する必要はないのだ。

「よかったら、一緒に走るかい?」

 屈託なく笑い、そしてオールマイトは小さな咳をした。
 大きな掌の隙間から除いた、わずかな鮮血。
 喀血だ、そう気がついた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。

「いいですけど、先生、ついてこれます?」
「オイオイオイオイ。みょうじ少女、私を誰だと思っているんだい?」

 両手を天に向け肩をすくめて、オールマイトがまた、笑った。



 走り始めてすぐ、わたしは互いの能力の差に気がついた。
 意外にも、痩せたオールマイトは健脚だった。走るスピードもスタミナも、わたしなど彼の足元にも及ばない。
 その証拠に、彼はわたしと並走している間、息一つ切らさなかった。
 痩せても枯れても、やはりこのひとはオールマイトなのだ。たとえ、少しの刺激で血を吐くような身体であったとしても。

 小路を一周したところで、オールマイトが走りをスロージョグに切り替えた。わたしもまた、それに倣う。

「ずいぶん体力がついたね。最初の頃は半周走っただけでぜいぜいしてただろ。毎日走り込んだ甲斐があったな」
「……よく御存じで」
「そりゃあね、大事な生徒のことはちゃんと把握してるよ」

 だいじ、という言葉にどきりとした。
 オールマイトは小さく笑って、足を止めた。そのまま彼は、首に下げていたタオルで汗を拭く。ただそれだけの仕草なのに、なぜか胸が高鳴った。

「君をインターン先に紹介したのは私だからね。それなりの頑張りは見せてもらわないと」

 ああそういうこと、と、小さくため息。確かにそれはそうだろう。
 それを心得ているからこそ、わたしも必死になって努力した。自分の行動如何で、オールマイトの顔をつぶすことになるからだ。
 どうしても、それだけは避けたかった。

 不思議なものだ。努力が報われないことを、この二年間、あんなに恐れてきたのに。今はオールマイトの顔をつぶすことが、彼に呆れられることが、なにより怖い。

「インターンといえばさ」
「はい」
「君の評判、悪くないぞ。むしろ、すごくいい。こないだ所長と会った時も、君のことをほめていた」
「そうなんですか……それは、嬉しいですね」
「学校の成績も上がってきているみたいじゃないか。こないだの中間テスト、座学実技合わせて、学年で10位以内に入っただろ」
「まあ、そうですね」
「やればできるじゃないか」

 当たり前だ、とひそかに思った。
 わたしがどれほど努力したと思っているのか。文字通り、寝る間も惜しんで勉強をした。入試のときだって、こんなに勉強しなかったんじゃないかと思う。
 付け加えさせてもらえれば、ペーパーテストに関しては、わたしは実に運が良かった。
 インターン先に、雄英をトップの成績で卒業した三つ年上の先輩がいた。彼の世代とわたしの学年では、座学の講師が殆ど同じ。それぞれの講師の出題傾向をよく知る彼がヤマをかけてくれ、それが見事に当たった。それだけのこと。
 だがここで、「もっと早くから頑張っていればよかったんだ」などと、意味のない説教をしないのが、オールマイトのスマートなところだ。

「ま、これからもこの調子で頑張れよ」
「はい」

 と、その時、オールマイトが目をしばたたかせた。

「……君、もしかして、あの香りつけてる?」

 一瞬、返す言葉に迷った。
 さすがに身体にはつけていない。ただ、タオルにごく少量を降りかけている。このひとと出会った時につけていた、毒と言う名のフレグランスを。

「それはさ、どちらかといえば、夜向けの香りだろ。早朝の学校には相応しくないよね」
「校則違反ではありませんよね」

 なんとなく悔しかったので、そういらえた。
 一般的に、進学校、エリート養成校と呼ばれる学校のほうが、自由な校風を誇っていることが多い。生徒の自主性を重んじ、自立かつ自律心をはぐくむためだ。
 雄英高校も、そう校則は厳しくない。ことにヒーロー科は、ヒーローとして活動の妨げにならなければ、たいていのことは不問とされる。髪を染めようが、化粧をしようが、自由だ。
 香水のたぐいは、潜入捜査を主とするタイプにとっては邪魔になるかもしれないが、自分にとってはあまり問題がないように思われる。
 だからうるさく言われる筋合いはない。そう思った。

「そんな顔をしなくてもいい。大人の話は最後まで聞きなさい」

 眉間に皺を寄せたわたしを見て、オールマイトがおかしそうに眼を細めた。

「早朝の学校には相応しくないが、君のその香りは、ヒーローとしての自己プロデュースの一環としては、むしろ好ましい。『毒』の香りをまとったPoison Lady、なかなかいいじゃないか」
「え……」
「その香り、今の君にはよく似合う。ネーミングもそうだが、チュベローズのイメージがとくにいい。ちょっと蠱惑的でもあるけどね」

 また、このひとは安易にそういうことを言う。ひとの気もしらないで。

「お望みなら、今すぐ誘惑してさしあげましょうか」
「……あと五年……いや、十年してからおいで」

 オールマイトは微笑みながら、よしよしとわたしの頭を撫でた。
 まるきりの、子ども扱い。

 すぐに言葉を返すこができず、ただ立ち尽くした。
 言われていることは、初めて会ったあの夜と変わらない。子どもだと思われていることも知っていた。実際、彼の年齢からすれば、わたしなど子どもにすぎないのだろう。
 けれど、ひどくショックで、同時にとても悲しかった。

 だが涙の一歩手前で、わたしは冷静さを取り戻した。
 感情に流されそうになったわたしをクールダウンさせたのは、早朝の風に混じって漂ってきた、スパイシーな白檀バニラ。
 彼がわたしの香りに気づいたように、わたしも彼の香りに気がついた。
 これはオールマイトのつけている、男性用のトワレの香りだ。

 シナモンとコリアンダー、その中に潜んだローズとバニラ、そして白檀。
 爽やかなオールマイトの別の一面を――おそらくは彼の本質を――目前につきつけてくるような、濃くて特徴ある大人の香り。

 つい、と、オールマイトを見上げて、そして笑った。できるだけ妖艶に、魅力的にみえるように。

 未だにこの気持ちがなんなのか、よくわからない。恋と呼べるものなのか、それともただの憧憬なのか。
 それでも……それでもこのひとに、これ以上子ども扱いされるのは嫌だと、はっきり思った。わたしはオールマイトに、一人の女として扱われたい。
 ぼんやりとしていた気持ちの輪郭が、くっきりと見えた瞬間だった。

「十年後、先生はおじいちゃんじゃないですか?」
「ひどいな。まだそこまではいってない。まだおじさんで通用すると思うよ」

 わたしの小さな抵抗に、オールマイトが肩をすくめて笑う。

 早朝よりも昼よりも、夜のほうが強く香ると言われるチュベローズ……またの名を月下香。
 妖艶な香りがするその花を、あなたはわたしに似合うと言った。

 オールマイト、あなたはきっと知らない。月下香の花言葉を。

「先生。一つ、お願いがあるんですけど」
「なんだい?」
「期末試験で、クラス一位になれたら、わたしのお願いをひとつきいてくれますか」
「……お願いにもよるな。私が懲戒免職にならないようなものにしてくれよ」
「それ、うぬぼれすぎです」

 たしかに、とオールマイトが高らかに笑った。

「で、お願いはなんだい」
「まだナイショです。ただ、条例にひっかかるような、倫理的に問題のあるようなものにはしません。先生を困らせるつもりはありませんし」
「ん、それならかまわないよ。ただし」
「ただし?」
「クラス一位じゃだめだ。どうせだったら学年トップを目指せ」
「ビッグスリーを超えろと」
「それこそが、プルスウルトラの精神だろ」

 わたしたちの学年には、文武共に秀でたトップグループがある。人呼んでビッグスリー。一人は現在休学中だけれど、残りの二人もかなりの実力者だ。彼らを超えることは、おそらくわたしには難しい。

 不可能だと思っているのか、それともそれだけわたしのことをかってくれているのか、静かに微笑んでいるだけの、目の前の人の反応ではわからない。それでも。

「わかりました」

 いらえたわたしに、オールマイトは、がんばれよ、と静かに告げた。
 はいと答えて、ひそかに思う。

 油断していられるのも、余裕でいられるのも、いまのうちよ。
 わたしの名前は、Poison Lady、毒の淑女。
 子どもだなんて思わないで。いつまでも、みょうじ少女なんて呼ばせない。
 月下香は小さく可憐な白い花。そこに毒を潜ませて、いつかあなたに嗅がせてあげる。

 わたしの密かなもくろみを、あなたはまだ、知らない。

2018.10.24

チュベローズ(月下香)の花言葉は「危険な関係」「危険な楽しみ」「危険な快楽」
こちらのお話は「真夏の夜の毒」「オケアノスの娘」「Poison Lady」の続きになります。
上記のうち二本は夢本収録作ですが、未読でも大丈夫なように書いたつもりです。

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